幸福
















 もうこんなことはお止め下さい、と言いながら、ワタリは汚れた竜崎の体を清めた。意識の飛び去った体の傷に薬を塗り止血をし、眠ってしまった幼子を起こすまいと気遣う母のように、ふうわりと抱き上げると、竜崎がわずかに痛みに身じろぐのが、腕に伝わる。

出来るだけ優しく竜崎の体をベッドに横たえ、涙と汗に濡れた前髪をかきわけて、ワタリは、その頬をそっと撫でた。
 Lは黙ってそれを見守りながら、壁にもたれて煙草の煙をくゆらせている。

「うるさいな」

苛苛と棘のある言葉が耳を刺した。

「死なない程度だから問題はない」

 そう言いながらLが、前髪の奥から途切れぬ視線をぴくりとも動かぬ竜崎に注いでいるのを、ワタリはちゃんと知っている。
 弟の胸がかすかに上下しているのを確認し、その視線がふと鋭さを失ったのを感じて、ワタリにはLが何故苛苛しているのかわかった。が、そこに触れることはしない。
 そんなことは「L」の補佐役として、出すぎた真似でしかない。

 窓の外が暗い。そろそろ夕暮れだ。ビルの陰に途切れた山の稜線から、うすら寒いような冬の太陽の残滓が見え隠れする。
 ワタリは苛立つLを、あなたももうお疲れでしょうとなだめすかし、別室で眠るように促した。

「その前に、ハーブティーでも淹れてくれ」

 我侭な子どものような言葉にうなずきながら、ワタリはあの夜のことを思い出している。この季節には、胸の奥が爛れるように苦しくなる。それは恐らくLも同じで、だから気が立ち、あのような無体に及びがちなのだと、ワタリは思っている。

「なあ、ワタリ」

 お茶を淹れるワタリの側で、Lは子どものような口調で言った。

「私は時々、おまえが本当の父親だったら、と思うよ」

ワタリはわずかに手を震わせ、ティーカップの中のお茶は大きく波立った。










 ワタリがあの家に雇われたのは、ワタリの妻が死んでまもなくのことだった。
 ワタリの有能ぶりを聞きつけたさる家の主人が、ワタリをよこすよう、「上」に言いつけたということだった。
 有能ぶりとは、即ち主人に対する従順さと口の堅さのことであり、ワタリはずば抜けてその能力に長けていた。それでいて誠実温厚、全てをそつなくこなすのだから、ワタリは若い頃から、補佐役として大変に高い評価を受けていたのである。ワタリはその評価の通りにただ一度うなずいて承知し、幾つめかの主家に、あっさりと手放された。

 ワタリには選択の余地などない。ワタリはただ従う。そう育てられた人間である。小さな頃から、有能かつ従順であること、それだけを価値として躾けられた。そうして、数え切れないほどの主家を渡り歩いた。だからワタリはこの時も、何の感傷も覚えず、新しい家に移ることが出来たのである。

 新しい主は、目の鋭い、陰険そうな男だった。眉間には常に深い皺が刻まれ、始終苦悩しているように見えた。ワタリが恭しく礼をし、挨拶をすると、主人はワタリに自らの妻を紹介した。婦人は瞳を伏せておどおどと夫の顔色を窺うようにし、ワタリとは目をあわせようとはしなかった。

 壊れている、というのが、ワタリの抱いたその家の印象だった。

夫婦には男の子がひとりいた。とてもよく、そしてぎこちなく笑う子だった。名を尋ねると、「える」という答えが返ってきた。ワタリはその時、ようやくそこが、世界一の探偵と謳われている「L」の家であることを知ったのだった。










 いつの頃からか存在する「L」が、探偵である他に具体的にどういうものであるべきなのか、その基準はどこにあるのか、その名がいかにして受け継がれるのか、ワタリには未だにわからない。わかる必要もない。尋ねる必要も。自分がそれを知ることを必要とされていないならば。ワタリとは、そういう男である。

 自分を押し殺し、ただ耐えて従う温厚な見上げた男、と人は言う。友人たちの中には、何故もっと「上」を目指さないのかと、首をかしげながら尋ねるものもある。そんな時、ワタリはいつも、苦笑しながら黙って首を振る。立場をわきまえないそんな振る舞いは、ワタリには出来ない。そもそもワタリには、押し殺すだけの自分がない。自分はそういう使い勝手がいいだけの、世にもつまらない男なのだとワタリは思っている。

 人の皮を被った獣の如き魔物どもが跳梁跋扈するこの世界で、彼らの弱みを握りえたはずのしがない男が、今日まで平穏無事に生きてこられたのも、ひとえに彼の、その白痴の如き無害さ故である。

 ワタリは自ら幸福を求めない。仕えている主人の幸福が、そのままワタリの幸福となる。ワタリにとっては、自分が強く何かを求めること自体が、即ち主人に対する無礼に他ならない。ワタリとは、そう躾けられた男なのだ。

 ワタリは部下としては傑作であり、そして人間としてはひどい畸形である。

 そう考えると、あのひずんだ家に自分が招かれたことは、妙に合点がいくことのような気がワタリにはしている。申し付けられたこと以外に立ち入ったことは尋ねず、黙って察する、それがワタリの主人に対する接し方だった。そういった細やかな心配りが嫌味なく出来る上に我を張らないワタリを、先代の「L」、つまり今のLの父親は、いたく気に入ったらしかった。

 ワタリは、「L」の部下として、その名を世界にとどろかせた。

 ワタリはそれを羨まれるたびに、やはり困ったように笑って、黙って首を振るのだった。そんな名誉を手にしなくても、ワタリは十分に幸福だったのだ。あんなことが起こるまでは。










 その夜、いち早く異変に気がついたワタリが主人の部屋へ駆けつけたときには、婦人はすっかりいけなくなってしまっていた。
 主人は既にその部屋にはおらず、ただ、呆けたように口を開いて横たわる婦人と、表情の一切を失くした幼い子どもだけが残されていた。

 あまりに陰惨な光景にさしものワタリも愕然となったが、すぐに気を取り直して、幼子を抱き上げた。子どもは一言も発することなく、何の反応を返すこともなく、真っ白に血の気のとんだ頬に涙の痕を這わせて、睨むように宙を見つめていたが、気丈にも、未だ正気を失っていたわけではないようだった。

 だから余計に凄まじいものを幼い心で受け止めなければならなかったに違いない、とワタリは思い、胸の潰れる思いで子どもを寝室まで抱いていき、メイドに優しく寝かしつけるようによくよく言って、一人で部屋に戻った。

 この家で起こったことの一切は外に漏れてはいけないことになっていたが、ワタリは何よりもまず婦人の為に、信頼に足る朋輩の医者を呼ぶことにした。
 生真面目な友人は二つ返事で他言無用の要求を呑んでくれた。

 彼が来るまでのあいだ、メイドたちが入ってこれないように鍵をかけ、ワタリは婦人の汚れた体を清めた。メイドたちは仕事は優秀だが、口は貝のようとはいえない。この類の悲劇は、いかに被害者に非がなくとも悪意ある好奇の目が注がれがちである。気高い婦人の尊厳をこれ以上壊すわけにはいかない、と、ワタリは考えたのだ。

 すでに婦人は、ワタリが体に触れても恥らう様子もなく、恐れる様子もなく、これ以上ないほどに壊れてはいたのだが。

 ワタリは、婦人が彼女の夫にはたらかれた凶行の全てを把握しながら、辛い作業を始めた。呆けた婦人は、身を任せたまま焦点の定まらない真黒な目をしばらく泳がすと、やがてワタリの眼をとらえ、そうしてひとこと、

「わ・た・り…」

と、言った。

 嗚咽でも慟哭でもなく、決して感情のこもった声色ではなく、ただただ目の前の物の名をそのまま口にしたといったような、極めて機械的で無表情な呟きだった。

 実際この時既に狂っていた婦人の眼は、硝子玉のように、ただ素直に世界を逆さまに映していただけに相違なかったのだ。けれども、ワタリはその時、ぞっとうすら寒いものを感じた。

 ばさばさ、と、夜の明けかけた青い窓を揺らして、鳥の飛び去っていく音がした。あるいは、梢から雪の塊が滑り落ちる音だったのかもしれない。

 ワタリは病院まで婦人に付き添い、自らの手で彼女をベッドに横たえた。そして、それが彼女を見た最後だった。臨月であった婦人は、産褥であっけなく亡くなったのだと、ワタリは人づてに聞いた。
 生まれた子どもは、遠縁に引き取られていったらしかった。ワタリははその子が不憫で仕方がなかったが、何しろ行方を追える立場ではなかったのだ。

ワタリは「上」の命令で、あの無残な光景に居合わせた長子を育てることになった。










 主人は、終に帰ってくることはなかった。

 土地や家財の一切は、幼い「L」のものになった。

 いかなる経緯を経てそのようになったのか、そして元の主人がどうなったのか、ワタリには知る由もない。「上」はワタリに何も教えようとはしなかった。それは同時に、決して何も探ってはならないという、無言の脅迫でもある。

 実際、ワタリには自ら主人の行方を探すような真似はできなかったし、しようとはしなかった。探すなというひと言、ワタリはそれだけで十分に主人の運命を悟ったのである。

 ワタリが今仕えるべきは、幼い「L」であった。ワタリは家財や「L」の名や、その他の何もかもと一緒に、幼い「L」に譲り渡された「物」にすぎなかった。そしてその決定に、ワタリはやはり黙って従った。それが、ワタリという男なのである。

 しかし今回ばかりは、ワタリは胸の痛むのを感じずにはおれなかった。幼くして両親を失い、広いだけの凍えた家の主とならざるをえなかったL。友達をつくることも許されず、父親と同じように犯罪者のことばかりを学ばされるLを、ワタリはどんなにか不憫に思ったろう。

 こんな中年の男がいてもつまらないだろう、母のぬくもりが欲しかろうと、子守をさせるためのメイドを何人か雇ってみたが、Lが彼女たちを苛めて辞めさせてしまうので、家事や細々したことだけを彼女たちに任せることにした。

 以前はぎこちなくともよく笑う子どもだったLは、あの夜以来、無表情な、気難しい子どもになっていた。

 夜尿症。小動物への虐待。少しの不快に対しての激昂。

 ぐらぐらぐらぐらと、安定しない情緒。

 何ものからか自分を守ろうとするものか、背中は老婆の如くに曲がり、不安に苛まれ常に手を口元にやって、疑わしそうにぎょろぎょろと目をむく。

 人の眼を見るのを怖がり、視線を拒むかのように前髪はのび放題になり、視力の低下を案じたワタリが前髪を掻き分けようとすると、きぃっと金切り声を上げ、腕に噛みつく。

 大きな物音に怯えて部屋の隅で丸まってじっと動かないこともあれば、緊張が高まると赤ん坊のように指を吸い爪を噛み、それでも落ち着かずに今度は自分の指を噛み、血だらけにしてしまうことも何度かあった。

 一度火がつくと子どもの癖に物凄い力で暴れるので、メイドたちにはとても任せられず、かといってボーイには育ちが良いのが多く、しり込みしてしまうから、結局ワタリは、一人でLのそばにつくことになった。

 ワタリは昼も夜も片時もLから離れられず、くたくたになったが、反面親としての情が芽生えるのも早かった。

 だから、Lが悪いことをすれば叱った。

 叱れば叱るほど、Lはワタリに懐いた。

 顔色を窺うことばかりせずに、嫌われる覚悟で強く叱ってくれる優しい存在を、賢い子どもは本能的に嗅ぎ分けたのだ。

 そうして、Lは再び、少しずつ笑うようになった。















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