Lはよく笑うようになったけれども、決まって冬場になると塞ぎこんだ。前髪も相変わらずのびたままだったが、それで気持ちを落ち着かせることが出来るならと、ワタリはLの気の済むようにさせてやることにした。

 ワタリは持ち前のさりげなさをもって、あの手この手で、何とか気を紛らわせてあげようとした。おどけて見せたり、外へ連れてやったりしながら、時折、Lの子どもらしからぬ頭の回転の早さと、物事に没頭するときの集中力に舌を巻いた。
 そしてその力は、塞ぎがちになる冬場にこそより研ぎ澄まされることを発見した。

 身に沁む寒さに恋しくなるものか、Lは冬になれば思い出したようにワタリから母親のことを聞きだそうとした。ワタリが誤魔化そうとすると、手を変え品を変え、何とか真実の尾ひれを捕まえようと必死になる。

 幼子の懸命に母を求めるその気持ちが、冬場のLの洞察力を研ぎ澄ます大きな原因となっていたようだった。

 そんなLを見ていると余計に、ワタリは本当のことを言えなかった。

 「ワタリは、何んにも存じませんよ」

 あの日自分の見た光景を自ら葬り去るようにして、ワタリは小さなLに繰り返した。そしてその度に、この聡い子どもに、自分の心を覗かれていはしないかと冷や汗をかいた。

 今思えば、「そんなこと」が幼子にわかるわけはなかったのだが…後ろめたかったのだろう。

 ワタリには、決して誰にも言えないことが、ひとつだけあった。

 ワタリは、自分はただ一人この事実を抱えて黙って死んでいかねばならないのだと、そう思っている。










 三十歳の時、ワタリは、勧められた見合いを断ることもせず、言われるままに仕えていた財界の家の娘と結婚をした。

 妻は大層虚栄心の強い、愛情の薄いヒステリックな女だった。
 優秀とはいえ、ワタリはしがない「部下」である。妻は、彼女からすれば「見下げ果てた従属者」である立場の男を婿に迎えたことを死ぬまで悔いていて、結婚してからもひっきりなしに、ワタリをなじった。

 ワタリは彼女をたしなめるでもなく、責めるのでもなく、そうすることが当然だと思ったから、彼女の父親の元で仕事をこなしながら、彼女と生活を共にした。

 冷え切った夫婦生活だったから、二人の間に子の出来るわけがなかった。

 やがて妻は過剰な贅沢に病みついて、結婚して4年でこの世を去った。
 呼吸の止まるまで自分の財産の心配しかしない妻の臨終を、何の感慨もなく看取り、それからまもなく、ワタリは「L」の家に招かれたのだった。

 ワタリはただ一度、はい、とだけ言って、「上」からの要求に応えた。
 そうすることが、当たり前だと思ったから。

 実際、ああいった世界では、自分のような人間が、「上」の決定に然り然りと従うことは、ごく当然なのだと、ワタリは思っていた。

 ワタリはたまたまそのような世界に生まれ、そこで育ち、曲がりなりにも必要とされて、生きていたから。だからワタリは、自分をつまらない男だとは思っても、不幸な男だとは思っていない。

 自分はこの人生を、送るべくして送っている。
 だから、これでもう十分に幸福なのだと、そう、ワタリは思っていた。

 ワタリには、人間らしい欲というものがとんと湧いてこない。自分の能力を誇示しようだとか、それを利用してのし上がろうだとか、そんな気持ちは、ワタリには皆無だといっていい。
 だからこそワタリは、気難しい「L」の補佐役として、うってつけだったのだろう。

 穏やかな男。欲のない男。
 目立つことをせず、我を持たず、数々の能力を秘めた、素晴らしく優秀な部下。
 人は皆、口をそろえてワタリをそう評するのだ。

 そんな男がたったひとつ、大切に胸の奥に呑みこんでいる秘密、それは、実に些細なことである。










 恐らくこれは、ワタリにとって生涯ただ一度の恋となる。
 ワタリは、Lの母親が好きだった。

 Lの母親の、俯きがちにまつげを伏せてただ夫に従うだけのその姿に、普段はさざなみ一つたつことのないワタリの心は、千千に乱れた。

 想いの遂げられることは当然なく、遂げたところで結ばれるはずもない。それでもただただ、ワタリは彼女が好きだった。自分の恋心を自覚したそのときから、ずっとずっとかなしい想いで彼女を見ていた。

 そして物心がついてからほとんど初めて、自分だけの甘い想いを味わった。
 ひとり身を焦がしながら、ワタリは彼女の側にいられることの幸福を、静かに噛みしめていた。

 きっかけは、何だったのだろう。
 病がちであった彼女が廊下で倒れたのを助け起こしたときだっただろうか。彼女が窓の外を眺めながら、小さなため息をつき、わずかに首をかしげたのを見かけたときだっただろうか。
 今でもワタリの脳裏には、あの婦人の可憐な動作の一つ一つが鮮やかに焼きついている。

 彼女がワタリの心を知っていたかどうかは定かではない。
 たとえ知っていたところで、私を抱いてごらんと誘惑するような不貞な女性ではなかったし、ワタリもそんなことができるほど恥知らずな男ではなかった。

 だから、当然といえば当然だが・・・・・・・二人は一度も通じることはなかった。

 ワタリが彼女の肌を見たのは、彼女が狂ってしまったあの夜が最初で最後である。
 あのいつも伏せられていた黒い眼が、ワタリの眼をはっきりと見たのも。










 その冬、何度か際どい問答があった後、ワタリは漸く、もう母親には「会えない」ということだけをLに伝えた。
 小さなLは泣かなかった。泣くに泣けなかったのかもしれない。Lの家族は、あんなことになってしまう前から壊れてしまっていたのだから。
 Lは涙さえこぼさなかったけれど、しかし非常に落ち込んだようだった。

 あんまりしょんぼりとしているので、ワタリはいっそ本当のことを言ってあげた方がいいような気がしたが、この上、打ちひしがれるようなことを伝えるのはどうしても哀れに思えて、自分に抱きついて離れないLに、せめてと考え添い寝をして、夜を明かした。そして次の朝、珍しく雪の積もった庭へとLを連れ出した。

 あの家の庭は、一人の子どもを遊ばすには白々しいほど広かった。けれどもワタリは、あえてL一人で遊ばせた。誰にも踏み抜かれていない白無垢の雪に足跡をつける無邪気な楽しみを教えてやりたくて。

 Lは普段見慣れない白銀の世界にはしゃぎだし、雪上に小さな足跡と手の跡とを沢山つけながら、楽しそうにそこかしこを走り回った。そうしてみると、Lは普通の子どもと変わりなく、子どもらしい可愛らしさを十分に備えていて、ワタリは思わず目を細めたものだった。

 その時、メイドがやってきて、ワタリに電話を取り次いだ。随分と込み入った話のようだったので、ワタリはそのメイドにLから目を話さないように言いつけ、自室へと急いだ。

 ワタリがようやく受話器を置いたとき、辺りはもう暗くなっていた。
 慌ててメイドにLのことを尋ねると、「坊ちゃまは一度戻って昼食を召し上がられた後、おやつも召し上がらずにお庭で遊んでおいでです」と答える。

 日の短い冬に、こんなに寒くなるまで小さな子を外に放っておいては駄目ですよ、と若いメイドを叱咤しながら、さてはよほど雪が珍しかったのかと、ワタリはLを家に入れるべく、庭へ出ようとした。

 その時。

 かちゃり。

 玄関が開いて、薄着になったLが戻ってきた。

 小さな男の子の手を引いて。自分の手袋とマフラー、それに上着をつけたその少年に向かって、Lは言った。

 「この人がワタリだよ」

 少年はまっすぐにワタリを見上げた。可哀想なぐらいに痩せた体の中で、真黒な眼だけが瞬いている。

 ――――――弱弱しく、けれど生命力に満ち溢れた真黒な眼が。

 その眼がワタリを素直に映し、呆けたように口を開いた。


 わ・た・り


 舌足らずの声が、一文字ずつ丁寧に、そう呼んだ。
 それは奇妙な余韻をもってワタリの耳にいつまでも残った。

 気の迷いだったのだろう。そうに違いないのだ。ワタリに後ろめたい気持ちがあったから、そんな気がしただけなのだ。

 けれどもその眼は、あの夜の彼女のそれにあまりにも似ていた。

 ワタリはその夜一晩中、悪い夢に苦しんだ。

 罪の意識に苛まれて。










 あの夜、狂った彼女の視線と自分のそれとが絡み合ったとき、ワタリは本来感じてはいけない恍惚を感じた。

 肉として反応したわけではない。そんな場合でもなかった。

 頭の奥だけが、じんと甘く痺れて。

 自分の視線が、放心し自分を失くした彼女の瞳に抵抗なくすうと吸い込まれ、すっぽりと包まれて、全て受け入れられて。

 通じた。

 そう感じた。

 子どものように無邪気に自分の名を呼ぶ彼女の声が、余計にそう思わせた。
 実際はどうだったのかわからない。しかしワタリは、心底からあの状況を悲しいと思いながら、一方では、自らの中で眠っていたほの暗いものがぐっと頭をもたげるのを、確かに感じていた。

 無抵抗の彼女に、恋心のもつれた視線を受け入れさせた。

 それを果たしたのだと気がついたとき、ワタリは自分の罪深さにぞっとなったのだった。

 あの家族は確かに壊れていた。けれど、壊れながらも確かに繋がっていた。
 珍しく親子3人で穏やかな時間を過ごすとき、婦人はこの上なく幸福そうだった。そんな婦人を見ていると、ワタリもまた、いいようのない幸福感を感じた。

 と、同時に、自らの罪深い望みが叶うことを、わずかながら妄想したのである。










 彼女の夫は・・・・・・かつて「L」と呼ばれていたあの男は、人の心を覗き、脳髄を機械のように酷使するその激務に、次第に心を病んでいった。

 それだけ脆く、そしてやさしい男だったのだろうと、ワタリはそう思っている。

 彼にとって、自分に備わった才能は、身の内から己を焼く業火以外の何ものでもなかったに違いない。

 婦人はそんな夫の本性を知っていたのだろう。彼女はいつも、夫を受け入れようと黙って腕をひろげていた。日に日に凶暴さを増していく夫に殴打されながらも、彼女の眼はまっすぐに夫を見つめていた。

 いつもは長いまつげに隠れ、伏せられているその黒い眼は、夫を前にすると、緊張し、明瞭な意思を持って、かッとばかりに見開かれた。

 メイドたちや小さなLは、それは恐怖からだと思い込んでいたようだったが・・・そうではない。ワタリにはあの一見弱弱しい女性が、白くほっそりとした胸の奥に、燃えるような気性を秘めていたように思えてならないのである。

 二人めの子を妊娠する前の彼女は、長子が夫に暴力を振るわれかけるのを見ると必ずかばって、矛先が自分に向くようにうまく仕向けていた。夫の掌が彼女に向かって何度も振り下ろされているそのあいださえも、彼女の眼は光を失うことはなかった。

 あの不幸な婦人は、弱弱しく打たれ、どうか許してと力なく夫にもたれるそぶりをして、その実、彼を支えるしなやかな支柱であったのだ。その上彼女は、持てる力の全てを、自らが家族と思い定めたものにしか注がない性質の女であった。本当ならとっくに壊れていたはずの家族は、彼女という強靭な糸によって、ようやく繋がっていたのだ。

 だから。

 だからあの汚れのない黒い眼がワタリだけを見たとき、ワタリは背徳の念に囚われた。彼女の夫に成り代わることを一瞬でも望んだ、ほの暗い罪を暴かれて。










 今、長じたLにこのことを話せば、何と言うだろうか。
 きっと、視線で交わるぐらいの恋の成就があってもいいじゃないかと言うだろう。そんなものは罪とは言わない、ただの望みだと。
 私の所業に比べて可愛いものじゃないかと言って、笑うだろう。そうして、彼女の代わりに赦してくれるかも知れない。

 けれども、どれほど胸苦しくても、ワタリは、このことは口に出すまいと心に決めている。

 「上」にはひそかに、今後一切二人の「L」に関わることは許さないと、警告されている。「上」は、「L」が自分たちのあずかり知らぬところで二人になったことに対して、快く思っていないのであろう。「L」の片方を、あるいは二人ともを、潰してしまう気なのかもしれない。

 けれどもワタリには、愛しい人の忘れ形見を、それが確かに愛しているわが子同然の弟を、見捨てることなど決してできない。

 ワタリは生まれて初めて、「上」の命に逆らった。

 自分はあの二人を見届けなければならない。自分の生きている限り。たとえどんな結果が待っていようとも。

 ワタリにはわかっている。

 ワタリには「竜崎」を助けることができない。
L」を止めることもできない。二人を救うのは、ワタリではない。ワタリの役目はただ、自分の命の許す限り二人を見守ること、それだけ。

 それこそが、ワタリにとって最も辛い生き地獄であり、同時に、経緯はどうあれ、結果的に主人に成り代わることを果たした罪滅ぼしでもある。










 Lが初めて自分自身の手であの悲劇の夜を再現したとき、ワタリは狂うかと思うほどに悩みぬいた。悩みぬいた末、これから先ずっと、毅然と二人の「L」にのみ従うことを、決意した。

 今の彼にはわかる。二人の「L」は、どんなに爛れた関係に堕ちようとも、互いに分かちがたく結びついているのだ。

 そう、あの悲しい結末をみた夫婦のように。

 もうどこへも行かない。今度こそここにいる。自分の愛しい息子たちの側に。命の許す限り。ワタリはひっそりとそう心に決め、そしてささやかな夢を見ている。

 いつか死んだら地獄に堕ちて、夫の後を追って一緒に地獄に堕ちたであろう彼女の元へと行き、自分を焼く業火のわけを、包み隠さず話して詫びよう。そして赦されるならもう一度、彼女たちの元に仕えさせてもらおう。

 地上で壊れていた夫婦は、地の底では幸せにしているのだろうか。幸せだといい。たとえ地獄に堕ちていても、幸せならば。

 ワタリはしんからそう願っている。
 主人の・・・愛しい人の幸福は即ち、ワタリ自身の幸福なのだから。










 ハーブティーの香りに眠気を誘われた低い声が、小さな頃のように、口の中で甘えるように呟く。

「なあワタリ」

「何でしょう?」

「私は時々、おまえが本当の父親だったら、と思うよ」

 ワタリは皺だらけの手を少しだけ震わせ、その言葉の意味するものを儚い思いでそっと噛みしめ、そして、にっこりと穏やかな笑みを浮かべた。

「・・・ワタリは、昔も今も、ただただワタリでございますよ」



ワタリは今、初めて自分自身の選んだ人生を生きている。















           

                  あとがき

 

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