薄明の空の底に、街が沈んでいる。

 あるいは深く、あるいは浅く、高低さまざまの光は、煩わしいほど自己主張し合いながら結果的にどろどろと溶け合い、一つの光る大きな不定形のものが、地底からむらむらとせり上がってきているようにも見える。

 空の底に溜まった澱のようなその不定形のものを、ホテルの一室から見下ろしながら、夜神月は退屈していた。

(鬱陶しい光だな)

 どんなに夜に抵抗しようと、人のつくる光など夜闇には勝てない。絶対に勝てない。
 広大な夜は何の力も及ばぬほどはるか上から全てを抱く。そのずっと下方で、この街は愚かしく一つのどろどろしたものに溶け合って醜く光っている。
 多くの愚者は、ああして自分の足元のみを照らして、自分だけはもう迷わないと、闇の腹の底深くに呑み込まれた己に気づかず、安堵しているのだ。

 太陽の光は息絶えようとしているのに空のすそが赤い。どす紅い。この街に棲む者たちの浅ましい欲望が、陽炎となって立ち上っているかのようだ。

 ばさ、と頭上でリュークが羽ばたいた。やはり退屈しているのだろう。戯れに見上げると、リュークの体は闇に溶け輪郭がはっきりしない。

 眼だけが、ぎょろりと動いて月を見る。

 暗い部屋。明かりのない部屋。

 最近の月には、こんな部屋が心地いい。
 死神になるなんてごめんだ、と、そう、リュークには言ったが、どうしても「そちら側」に惹かれてしまうのは、きっと自分が手にしているあの忌まわしいノートの所為だ。

 月は今、二つの世界の間に立っている。

 人と神の狭間。

 人の心は境界線上にさ迷いやすい。陰ならば陽に、陽ならば陰に反発して、同時に焦がれて。対立する二つの概念からは決して逃れられない哀しき思考の生物、人間。

 「う・・・」

 部屋に在るもう一人の人間が目を覚ました。けだるそうにまぶたを持ち上げ一対の眼がこちらを見る。表面の湿った有機質のオニキス。

 月のものとは質を異にする白い膚がぐ、と緊張し、うつ伏せから上体だけを起こした。

 「…いい加減、ここから出して下さい」

 月をはっきりととらえなおしたオニキスはきゅ、と鋭い光を放った。怒っている。

「竜崎は、あの男がいないと随分反抗的だね」

 月は、憎憎しげに眼光を受け止める。あの眼光はいつも月を苛苛させる。あの光は、街の明かりのように怠惰でないから。そんなものよりも、ずっと鋭く激しいから。いかなる光とも溶け合うことをせず、ただひとつとして、そこにあるから。明瞭な意思を持ち神を必要としないから、だから、月の神経を嫌というほど逆なでする。

 神を求める羊なら、黙って神に従わせればいい。けれども、これは。

 「私はあなたが嫌いですから」

 「ふん?じゃ、あの前髪がやたら伸びたデカイ男のことは好きなんだ?」

 「あれは、」

 竜崎は一度大きく息を吸う。

 「あれは、私の捜査のために必要な人材です」

 月は、気に入らない、と言うように竜崎を睨めつけた。実際気に食わなかった。竜崎と自分とを隔てる壁は薄い。つまり二人は非常に近い。考え方は正反対だが、精神的にも、肉体的にも、その質は血を分けたようによく似ている。竜崎はあのノートを知らないだけで、自分と同じに神になろうと思えばなれるだけの能力を持っている。

 いつ出し抜かれるかわかったものではない。

 無能で愚かな羊なら、ただ神に従わせればいい。けれども、「これ」は神に近い。

 あぐらをかいて安泰したいわけではないけれども、追い抜かれることだけは許せない。神は二人要らない。この男はもっともっと堕とすべきだ。そうでなければ月の気が済まない。

 へばりつかせて叩きのめしてその能力の一切を奪いつくして。蛇蝎の蠢く地の底に閉じ込めてやらなければ。

 だからこうして。

 「抱かれた後で、よく相手に嫌いだなんて白々しいことが言えるよね、竜崎。さっきまで僕のでよがってあんあん言ってたのは誰だっけ?」

 竜崎があからさまに嫌な顔をした。殺意でも覚えただろうか。いや、殺しても足りないぐらいだろう。

 実際竜崎はよがってなんかなかった。あげていたのは悲鳴だし、抱いたと言うよりは強姦したと言った方が正確だ。お互いの力が拮抗しているのだから、思うように組み敷くことは当然かなわず、月も同じような痣をたくさんつくったけれど。

 蹴られた頬がひりひりと痛んだ。

 獲物に噛みつかれたことを思い出した月は、一層不機嫌になる。
 窓際からベッドの横に戻る。ごく自然に、しかし用心深く。この猫背の痩せぎすの男が侮れない人間であることは認めている。

 あの眼は、いつだって光を見失わない。少なくとも、月といるときは。
 あれほどまでに尊厳を踏みにじられながら、竜崎の眼は光を失わない。熱を帯びていることもあれば、涙をいっぱいにためていることも、放心して焦点の合わないときもある。

 けれども、月はいつも、その眼の奥に消えない光が揺らめくのを見出す。その光が宿っているから、竜崎は神に助けを求めない。こんな状況下でさえ。忌々しい。

 その自尊心が根元から折れ、眼が光を失い、助けを求めはじめたら、まだ許すことが出来るのに。
 
 許せない。神にも魔にも惑わされない意志の強さが。いっそ、本当にこの手でくびり殺してしまいたい。
 堕としたい。沼の底へと。もう二度と這い上がれぬほどに。

 月は竜崎がそれほどまでに憎い。

 竜崎は、月を人の方へ連れ戻そうとする。
 月は神とならねばならぬのに。
 神の座へ歩み寄ろうとする月の袖を、竜崎はぐいと引く。月と同じように神と人との境界線上に立つ稀有の力を持ちながら、殊勝にも月を引き止め、人の方へと押し戻そうとする。

 そうして、それが正義だとしたり顔で言う。

 おまえのしていることだって、「キラ」と変わらないじゃないかと月は思う。
 月は犯罪者を体ごと消す。竜崎は犯罪者を社会的に消す。社会というものの中で生きる生物である人間にとっては、命を断たれることと社会から消されること、それは結局同じことだと月は思う。

 死刑判決を受けた人間をどう殺そうと同じだ。竜崎もそう考えたから、テイラーをあの場所に座らせ、キラに戦いを挑んだのではないのか。
 死刑判決を受けていなくとも、社会から必要とされない悪しき者を消して何が悪い。弱きものを守るための法が、同時に悪しき人間を守ることになっている矛盾、それを自分なら正すことができるのだと、月は信じて疑わない。

 だからこそ月は神となる必要がある。
 月とても、人の命の重みを知らぬほどの冷血ではない。神とならねばこの仕業はできぬ。

 月の意識は、ノートを拾い上げた当初とは、ほんの少し変わっている。神となることを欲するから裁くのではなく、裁くには神となることが必要だから、月は神になろうとする。神にすがるしか能のない弱きものを守るために。そして同時に、月自身を守るためにも。

 しかしこの考えに、竜崎は決して同意しないだろう。彼にしてみれば、月のしていることは単に狂気じみているのだ。竜崎はだから、神と人との間に番人の如く立ち、そこを超えようとする月を咎め、小奇麗なことを言う。

 小賢しい。余計なことを。邪魔だ。苛苛する。己の手を汚すことを知らぬ偽善者め。

 だから月は竜崎が嫌いだ。大嫌いだ。本当ならデスノートに、目も向けられないような無様な死にざまを描いて、殺してやりたい。でもそれができないから、月は竜崎の体を辱めることで気を晴らしている。

 罪悪感などない。

 神に逆らう者は必ず雷に打たれなければならない。
 これは神の逆鱗に触れた者の受ける当然の報いで、だから月は残忍なことを思いつく度、竜崎に試す。勿論それは全て犯罪と呼ぶに相応しい行為だけれど、自尊心の高い竜崎は、自分が男に陵辱されたことなど死んでも言わない。だから誰も彼を助けない。竜崎には、彼のわずかな気配を読み取って何かを察してくれる、それほど親しい者はいないと、月はそう考えている。
 そして実際そうなのだ。

 あまりにも才ある者はいつでも人知れず孤独の肩を抱く。それだけは月にもよくわかる。

 だから。
 
 だからこの黒髪の男は、こうして暗く傷つけるのが一番都合がいい。神に祈るほかない状況を思う存分味わわせて、月が神であることを体に叩き込んで、自分に許しを乞わせてやるのだ。

 月は鋭く眼を細めた。

 「…する?」

 月は唐突に、退屈そうに窓辺に座っているリュークに向かって言った。
指差す先には、光をはらんだオニキスの相貌。

 「嫌です」

 リュークが見えるわけがない竜崎が答える。
 リュークがこちらを向く。自分に話しかけていると気がついている。

 「四つんばいになって腰を突き出せよ竜崎」
 「嫌です」

 視線をリュークに戻し、

 「溜まってるだろ?おまえも雄だからな」

 「もうたくさんです」

 視線を竜崎に向け、

 「今、隣の部屋に皆いるからねえ。呼ぼうか」

 「・・・!」

 月はまたリュークを見る。まんざらでもない様子をしている。四六時中月の側にいる上、部屋を汚すと酷く叱咤されるから、ろくに処理もできていないはずだ。その上、毎晩のように竜崎を玩ぶところを見せつけられていたのだから、正直、堪ったものではなかっただろう。

 人には背徳と受け取れる行為も、魔に近い存在である死神にとっては快楽でしかないと、それらしいことをリュークの口から聞いたことがある。リュークは気のいい奴ではあるが、そもそも死神だ。良心など持ち合わせていまい。

 ばさりと羽をたたみ、リュークは窓から下りてベッドへと歩み寄る。月は竜崎を振り返り、命令した。

 「竜崎、早くしろよ」

 皆を呼ぶ、という脅しが効いたのか、それとももう何度でも同じだと思ったのか、竜崎は傷ついた体で四つんばいになり、腰を突き出した。月を鋭く睨みながら。

 「じゃ、よろしくね」

 月はそう言って、意味深な笑みを作り、竜崎から離れた。

 「な・・・何ですか」

 怪訝そうに振り返る竜崎の眼には、当然リュークは映ってはいない。月は竜崎から遠く離れる。竜崎の恐怖がより増すように。

 『ホントにいいんだな?月』

 その声を受け止め震えるのは月の鼓膜のみ。

 「ああ、いいよ。溜まっているんだろ?遠慮するなよ」

 何のことかわからないと言いたげに瞬いた竜崎の眼が、次の瞬間、恐怖の色を帯びた。

 「ひッ…!?」

 月はあんなに離れて立っているのに。

 腰が、巨大な手のひらで抱え込まれるような感触が伝わってくる。

 ベッドの上には自分の体以外何もない。

 それなのに、高くかかげた腰を支える両膝は、自分以外の確かな質量によって傾くマットを感じている。

 「爪、立てていいよ」

 月が言うと、がり、と何かが竜崎の腰に爪を立てた。

 裂かれた皮膚から出血する。

 「な、何ですッ…月君、これは…っ」

 「何もないもの」が竜崎の腰を引き寄せようとした。腰の辺りの皮膚が圧迫されて大きな手の形にくぼんでいる。恐怖に弾かれ逃れようと暴れる竜崎をものすごい力で何かが押さえつける。

 月や兄に傷つけられているときに感じているのとは全く別な、己の理解の範疇を越えた未知のものへの恐怖が、竜崎の胸にどっと流れ込んだ。
 冷たいというよりは温度のない手のひららしきものは、腰をしっかりと抱え込み、膝をついたままの竜崎の体をずるずると後方に引きずる。

 「大丈夫だよ・・・竜崎。これまで僕が何をしても死ななかったじゃないか」

 ベッドの横から聞こえる月の声は、明らかにこの人外のものの正体を知っている。

 「ヒッ!」

 竜崎が声を上げた。自らを捕らえている手と思しきものと同質の、得体の知れないものの一部が、先ほどまで月が汚していたところにあたる。

 竜崎の顔がさっと白くなった。

 「あぁーーーーーッ!」

 得体の知れない何かに犯される感覚。明らかに人の…いや、生き物のものでさえないそれは、無機質な温度とは裏腹に、竜崎の腹の中でびくびくと容積を増し、欲望を露にする。

「ヒッ、ひぃ・・ッ、う・・・」

下腹を強く強く圧迫され、竜崎はただがくがくと揺れた。嘔吐しそうだ。はらわたが押しあげられているからなのか、それとも人外のものに犯されているからなのか。

「う、・・うェッ・・・うぉえぇッ」

 月は異形の肉鎖に繋がれ何度もえずく竜崎を楽しそうに見つめた。竜崎の腹の皮の下でリュークの刀が蠢くのが見て取れる。
 破れそうだ。破れてしまってもいいかもしれないが。
 リュークの体は物質をすり抜けることができるから、適当に加減しながら楽しんでいるに違いない。もっとも、加減しなければ内臓を損傷して、確実に竜崎は死んでしまうだろう。
 何ならそのまま無様に死んでくれても結構だが、リュークはそこまで残忍でもない。善とも悪とも分類できぬ、のらくらしたいい加減な性格なのだ。
 それでも竜崎の苦痛と恐怖は想像を絶するが。

 『人間てのは、熱いんだな』

 そう飄々と呟きながら、リュークが恍惚の表情を浮かべた。
 その、奇妙に神々しい顔を月は横から見つめる。

 闇に溶けてよくは見えないが、リュークの刀は明らかに生殖に向かない形状をしている。本来生とはかけ離れた世界に在るものだから、当然なのかもしれない。それにしては、リュークの体は生殖行為という生の根本ともいえるおこないを望み、この世の肉と同じように猛り狂っているのだ。

 矛盾している。そもそも神が真に神なのなら、生殖する必要があるのかどうか。いや、本来なら死ぬ必要もないはずだ。けれども、死神も種種のことに因って死ぬことがあるという。

 矛盾している。月は魔物に犯される竜崎をじっと見る。
 竜崎は恐ろしくて身動きもできないらしい。金縛りにかかったようになって喉だけをぜいぜいと鳴らしている。

 リュークはうっとりと恍惚に溺れている。一端の神のくせに、その動きはやはり動物的で生々しい。神でありながら性という禍々しさをも内包した罪深い存在の襲来、これを人は夢魔と呼び畏れるのだろうか。

 聖と邪とは常に背中合わせだ。神も例外ではないのだろう。何も知らずに眠る乙女に忍び寄り、陵辱する神さえあるではないか。

 神に奉仕させられている哀れな生贄を眺めながら月は高揚する。
 神でさえも抱える陰陽。この混沌は心地良い。

 本来混沌や矛盾を好まぬ月だが、この混沌だけは心地良い。
 今まさにその混沌に呑まれているのが憎い憎い竜崎だからなのか、それともこれが月の本性なのか。

 竜崎がひときわ大きな悲鳴をあげた。

 ぬめぬめとリュークの先走りと思しきものが竜崎の内腿を駆けおりる。

 びちゃびちゃ、ぐちゃぐちゃ。

 おびただしい水溜まり。

 しなる蒼白い肌。

 それを押さえ込む異形の体。

 ――――――いい眺めだ。

 意思を持った生が意思を持った死に侵されどろどろと交じり合う。
 月はうっすらと凄絶な笑みを浮かべた。

 やがて、

 「ヒィっ・・!」

 氷のように冷たい液体が大量に竜崎に注ぎ込まれた。人間のものとは違う、赤みがかった濁った汚水のようなそれが、竜崎の足を伝わり、ベッドの上に更に大きな水溜りをつくる。
 べちょ、と湿った音がして、水溜りから見えない何かが離れた。
 ひくひく、と竜崎は痙攣する。

 「ふん…」

 月は馬鹿にしたように鼻を鳴らし、うなだれて震える竜崎の側に歩み寄る。
 毅然と立つ自分。野良犬の如き生贄。気分がいい。

 「さて、これはどういうことだ?」

 さぞかし縮み上がって泣き叫ぶだろうと思っていた。いや、実際そうだった。
 が、竜崎の半身は萎縮するどころか反応を示している。

 ああ。

 思い当たって月は愉快になる。

 死を覚悟した体が自らの名残を残すべく、本能を肉に作用させたのだ。
 与えられた死の法悦に逆らうことのできない、愚かな愚かな肉の性だ。

 はは。

 月は笑った。

 浅ましい。

 浅ましい姿だ。
  
 浅ましい姿のおまえは、紛れもなくただの人間だ。

 そんな痴態をさらす神などない。おまえはもう神にはなれない。

 聖なる神の世界の番人面して僕の前に立ち、咎める資格もないよ。

 僕は汚れて力を失ったおまえを踏み越えて、あとは神の座へとかけ昇るのみだ。

 (いいよ竜崎)

 月は愉悦のあまり危うく口からこぼれ落ちそうな言葉を、胸の奥で響かせる。

 (その無様な姿に免じて、僕は君を、神となって初めての贄として受け取ってやろう)

 もっともっとのたうちまわれ。地べたを這いまわれ。僕は神として、その程度の価値しかおまえに与えない。

 「お疲れ様」

 その意味はリュークにだけ伝わった。リュークは満ち足りた様子で窓辺に戻る。その後ろ姿が何だか無邪気で、月は思わずくすっと笑った。そしてすぐさま、竜崎の髪をわしづかみにしてよくよく顔を眺めた。
 抗うだけの力さえ失った体躯と、恐怖に凍えた精神とをようやく支える膝と手は、がくがくと震えている。
 真っ白に血の気の飛んだ膚のまま、見開かれた眼は窺うように月を凝視している。

 その黒い目を覗きこむ。
 あの忌々しい眼光は、異常な交わりに打ちのめされて鈍っていて。

 「はは」

 月は大いに満足する。

 「さあ・・・次はもう一度、僕に奉仕してもらおうか」

神であるこの僕に。
今のおまえはもう、なす術知らぬ哀れな子羊でしかないのだから。
夜の神はにこりと笑った。
そして辛うじて踏みとどまっている贄を、自らの支配する方へとひきずり込んだ。

べちゃり、と水音を聞きながら、竜崎はそのままものも言わずに失神した。

















 

 

 

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