小賢しい子だ、と、それ以外に何か言葉をかけてもらった記憶はない。
 その度に、悲しかったのだろうか、悔しかったのだろうか。
 会話もごく普通に交わしていたはずだが、どうも記憶が曖昧だ。

 (今更、何故思い出そうとするのだろう)

 父の記憶。

 Lは父の顔をよく覚えていない。見ればそれとわかるのだろうが、積極的に思い出そうとするとわからなくなってしまう。今のLにとって、思い出すことも出来ない父は、どうでもいい存在ということになるのだろうか。

 (だとしたら、母は)

 母は、更にどうでもいいのだろうかと、Lは思う。
 母にいたっては、彼女が自分に何をしてくれたのかもよく思い出せない。ただ、悲しそうにうつむき、黙って父に従っている、その姿しか記憶にはない。

 父と母は決して愛し合ってはいなかった。
 肌に染みついたその実感だけは、鮮明に覚えている。

 政略結婚というやつだったのかもしれないし、子ども、つまり自分が出来て仕方なく、ということだったのかもしれない。お互いに罵るようなことはなかったけれど、一緒に居て笑顔ということもなかった。

 一枚だけ残っている家族写真を、じっと眺める。

 Lが探偵となり、全ての写真を処分するとき、ワタリが気を利かせてこっそりと手渡してくれたものだ。
 写真の自分は5歳前後だろうか。まだ前髪はのびていない。父と母との間に立ち、二人の服のすそを掴んで、強張ったように口元だけを歪めて笑っている。父と母は能面のように、にこりともせずにただ立っている。

 綺麗な身なりをしてはいるが、寒々とした冬の嵐のような気配が、じわじわと沁みだしている。

 Lは苦笑する。
 他の人間のことならばわからないことなど何もないのに、自分のことになると、どうにも思考が緩慢になり、うまく考えをまとめることが出来ない。

 今となってはどうでもいいことだ。ただ、Lは、父親がたしかに嫌いだった。




 小賢しい子だ。

 おまえは小賢しい子だ。




 父の声が頭の中で響いた。















 



















 「お兄さん、大丈夫ですか」

 くしゃみをしたLを心配して、義弟が言った。
 ああ、と短く答えて、Lは自分の手のひらに目を落とした。暖かい部屋の中で、手だけが冷えきっている。昔からこの季節になるとこうだ。手が温まらない。

 「あの、私なりにキラのことを推理してみたのです」

 目を輝かせながらそう言う弟。

 (この子は)
 私の背ばかり負う。
 私の服を真似、私の仕草を真似、私がしている推理に興味を持って。
 今回の事件を、義兄の代わりに『L』として担うまでになった。

 そろそろ18歳か。よく育ったものだ。
 拾った頃は、そのうち死んでしまうかとも思えるほどだったのに。

 「ふん、聞こうか」

 外の吹雪など忘れてしまうように暖かい部屋の中で、小さなテーブルをはさみ向かい合って座り、きらきらと目を輝かせながら自分の考えを述べる義弟の成長ぶりに、Lは人知れず目を細める。

 あれも同じ季節だった。

 小さな頃から冬場に塞ぎがちになる傾向のあったLは、ある朝ワタリに促され、雪化粧の庭へと出て行った。
 見慣れない雪にはしゃぎ、塞いだ気分もすっかり洗われ、さて家に入ろうとすると、梢からさらさらと雪のこぼれる音がして、庭木の陰から小さな子どもが姿を現した。

 着るものも満足に纏わない哀れな少年。

 一体どうやってこの家の庭に入り込んだものか。

 可哀想になったので、Lはその子の真っ赤になった手を、自分の冷たい手で引いて、家に入った。警察へ、とワタリは言ったが、得意の口先を発揮して、終にこの家で育てることを納得させた。

 「弟」は可愛かった。

 おにいさん、おにいさんと、Lの後ばかりをついてきた。

 ちゃんと育ててやらなければ。

 幼心にそう思ったのを覚えている。

 あんなに荒涼とした空気はもうごめんだ。自分の育った家の空気を思い出し身震いをしながら、あんな思いはさせまいと、そう思い定めて…今に至る。
 弟のためではない。半ば自分の為に。

 あんな冷たい男になど、誰がなるものか。

 Lは、心の冷たい父が嫌いだった。




 小賢しい子だ。

 おまえは小賢しい子だ。




 凍えるような言葉は、もう誰の口からも聞きたくない。










 いつのことだっただろうか。
 Lは物でも渡すようにぽいと、ワタリに預けられた。
 文字通り小賢しかったLは、探偵として特殊な教育を受けることになったのである。

 周囲の期待は大きかった。その期待に応えようという気がなかったから、Lはプレッシャーを感じることなく伸びた。どれだけ誉められようと、どれだけ羨まれようと、Lは微塵も嬉しくなかった。
 自分は人身御供だ。
 望みもしないのに他人の心の闇を覗き込み、隠された弱い部分に強い光を当て、一個人を引き裂いて壊す。
 他人より少しばかり知能が高いというだけで、なだめすかされながら、人が嫌がる仕事をさせられているだけだ。今では犯人を追いつめることは快感でしかないけれど、あの頃の自分はまだ少しまともだったのだろう。
 まともではあったけれど、正義感などは持ち合わせてはいなかったから、自分のしていることが正当化できなかったのかもしれない。

 周りの、卑屈なまでの羨望の視線にも慣れ、息苦しい時期が過ぎると、幼くして人の心の闇を覗いたLの脊柱は、大きく歪んでいた。

 ある日。
 可愛がっていた小鳥を握り潰してその死骸を並べていると、ワタリに見つかって、酷く叱られた。何故叱られるのかはよくよく理解できたけれども、悪癖は直らなかった。
 毎日餌をやり、優しく声をかけ、自分を信じきったところで殺すのがお気に入りだった。絶対的な優位を思い知らせるときの、自分の力に支配された、恐怖と悲しみに見開く非力な黒い目。

 それを見るのが、逆らいがたく好きだった。
 Lは今でも、相手の首を絞めながら交わるのが好きだ。
 ワタリがあんまり心配して胃を壊してしまったので、さすがにその後はこっそりやるようになったけれど。

 (ワタリ)

 傍らで静かにお茶の準備をする白髪の老人を、Lは前髪の奥からちらと見る。

 ワタリには感謝している。
 ワタリは本当に愛情細やかに自分を育ててくれた。ワタリが、本当に自分の父親だったら、と思うこともあった。けれどその愛情も、結局は他人行儀なものだったと、Lはそう思っている。

 仕方のないことだろう。ワタリにとってLは、所詮押しつけられた他人の子なのだから。思えば、ワタリもよくあんな不気味な子どもに我慢できたものだ。あの頃の自分が、幼子であって本当によかった。無邪気という最も残酷な凶器を振りかざせど、非力さ故に大事には至らない。被害が小鳥や子犬や子猿で済んでよかったと思っているが、その考え自体が歪んでいるのかもしれない。

 そんな子どもだったLが義弟の手を引いて家に連れ帰ってきたとき、ワタリはさぞかし肝を冷やしただろう。あの小鳥のように、首を絞めて殺してしまうと考えたのかもしれない。

 けれども実際は、義弟が出来て、Lの悪癖はぴたりと止んだ。

 あんな冷たい男になど誰がなるものか。

 その頃になって、Lはそう思うようになったのだ。

 (どうだ)

 Lは、記憶の父に言う。

 (どうだ、私は少し歪んでしまったけれど、おまえのような男にはならなかった)
 
 (私は、おまえが私を育てたようには、この子を育てなかった)

 今はどこで何をしているかもわからない父親に向かって、吐き捨てるように言う。

 (今なら私はあなたを踏み越えられる)

 これは、復讐なのだろうか。


 ―――――――――。


 「…それで、この写真の犯罪者ですが」

 ふいに義弟の声が大きくなった。
 少し考えごとに没頭しすぎたようだ。

 (この子の前では、私はどうも気を緩めてしまう)

 Lは意識的に義弟の言葉に集中する。
 義弟は何も知らずに目を輝かせ、その指で、机に散乱する死骸の写真の一枚をめくった。青黒い顔をした太った醜い男が、苦悶の表情で胸をかきむしった姿のまま、牢の中で硬直して死んでいる。爪が剥がれている。苦し紛れに床にでも爪を立てたのだろう。

 苦し紛れに。

 「母子を殺し、逮捕された男です」

 母子。

 Lは何故か身じろぎする。
 がたがたと風が窓を揺らした。
 暖かいとばかり思っていた部屋の窓の隙間から、いつのまにか凍えた空気が忍び寄っている。
 真っ黒な奈落の底のような闇夜に、叩き落されるようにして雪が舞う。
 手が、温まらない。

 「あんなものは愛していなかったと暴言を吐き」

 愛してはいなかったと。

 「首を絞めてじわじわと殺害するという残忍な手口で死刑判決を受けた」

 首を締めて。

 「子どもと配偶者は常日頃から彼に怯え」

 怯え。

 「助けを求めることも出来ずに殺されたと、そう報道された犯罪者です」

 私が思うにはキラは、
 と、義弟のそれから先の声が、急激に遠くなった。

 (ああ)
 
 自ら切り離したはずの記憶の糸が、繋がろうとしている。

 そう、父は威圧的で支配的な男だった。父がそこにいるだけで家族の空気は陰鬱になった。

 父は、恐怖で家庭を支配していた。母は父には逆らえなかったし、当然Lも同じだった。どんなに思い出そうとしても父の顔が思い浮かばないのは、小さなLが、父の顔を、恐怖のあまりはっきりと見ることが出来なかったためだ。

 父は、家族が自分の命令と違うことをしようものなら火のように怒り狂い、母子は恐怖に慄いて謝るばかりだった。

 父を怒らせまいとして、Lは一生懸命「いい子」にした。けれども父は、Lを誉めたことも抱きしめたことも、一度だってない。
 それなのに父は、時折気まぐれにLをかまっては、また冷たく突き放した。そうして、小さなLが傷ついているのをせせら笑った。

 父はすなわち暴君であり、家族の上に君臨する理不尽な黒い冬であった。
 幼いLは、父に不機嫌な声をかけられたそれだけで、内心縮みあがりながら返事をした。

 反面、むすっとしてにこりともしない父の代わりに、口の端を歪めてぎこちなく笑うようにもなった。支配者たる父の理不尽な怒りを、和らげようとしていたのだろうか。鬱々とした家を何とか明るくしようという、道化の気持ちもあったのかもしれない。

 そうして笑うLを、気まぐれに突き飛ばす父の手は、ぞっとするほど冷たかった。
 その大きな冷たい手が怖くて怖くて、小さなLは、いつも部屋に閉じこもってじっと息をひそめ、機嫌の悪い足音に怯えた。
 それでもやはり血を分けた父には愛されたかったから、時折勇気を振り絞って口の端を歪めて笑い、いかにも子どもらしく彼にじゃれつけば、父はその恐ろしい手でLを突き放しながら、こう言った。




 小賢しい子だ。

 おまえは小賢しい子だ。

 不気味な子どもめ。

 おまえは道化を演じながら、

 いかにも愛らしいように演じながら、

 俺に服従を示そうとしながら、

 腹の底では俺を憎んでいるのだろうが、

 おまえも所詮は俺の子だ。

 おまえには俺のこの血が流れているのだ。

 おまえもいつか、俺のようになる。

 おまえもいつか、俺のように




 「お兄さん?」

 義弟が自分を覗き込んだ。
 何でもないと小さく呟きながら、しまいこんでいた記憶が意識の方へ堰を切って流れ出すのを止められない。

 (ああ)

 どうどうと溢れ出した記憶は錆びた扉を押し破る。











 ああ、これは、同じ季節の夜の光景だ。
 窓の外と変わらない暗くて寒い部屋の中で、小さなLが泣いている。
 母の白い指がわなないて、苦しげに虚空を掻く。
 父は仰向けになった母にのしかかって、母の細い首を手のひらで絞めている。
 そうしながら、父は母を犯している。

 母の黒い目は、大きく見開かれている。
 泣きじゃくりながら母にすがりつこうとする幼いLに、父は、その唇に底知れない闇を湛えながら、こう言った。




 邪魔だ。向こうへ行け。

 おまえのような小賢しい子を二度と生めないようにしているんだ。

 おまえだって、こうして生まれてきたくせに、何故そんなに泣き叫ぶのだ。




 Lはぴたりと泣き止んだ。

 母は身重だった。
 その日から、Lは母の姿を見ていない。
 しばらくして、Lは物のようにワタリに預けられた。




 小賢しい子。

 小賢しい子だ。

 おまえは小賢しい子だ。


 小賢しいから。

 私が小賢しいから。

 小賢しくさえなければ。










 「お兄さん?」

 いやな汗をかくLを、義弟が心配そうに覗き込んでいる。いくらなんでも様子がおかしすぎることに気づいたのだろう。椅子から降りてきて、温かい手で心配そうにLの肩に触れる。がたがたと窓が揺れ、雪が風になぶられて踊る。暖かな空気を侵して、窓の隙間から冬が忍び寄ってくる。

 汚れを知らない真っ黒な目が自分を見つめる。
 ぎしぎしと世界が揺らいだ。
 表情の少ないLの些細な変化を敏感に察知できるのは、この黒い目ぐらいなものだ。

 しかし、今は気遣いなどいらない。

 (余計なことをするな)

 Lは理不尽に苛つく己を止められない。

 覗き込むな。

 私を覗き込むな。

 おまえが踏み込んでいい世界ではない。

 私がこれほどまでに押し殺しひた隠しているのに、

 おまえは何故それに気づいて覗き込もうとする。




 ――――――――――小賢しい子だ。




 Lはそう思った。


 「大丈夫だよ、ほら、続けて」

 口元だけを歪めてにこりと笑いながら、Lは、椅子に戻り再び口を開く義弟を眺めた。

 小賢しい子だ。

 私と同じに小賢しい子だ。

 けれども、私のようには歪まない。

 私のようには汚れない。

 私と同じ血ではないから。

 あんな光景を見たことがない目だから。

 あんな言葉を拾ったことのない耳だから。

 理不尽な殴打を知らない体だから。

 私の愛情を注がれたから。

 私は知っている。この子は簡単に汚れたりしない。

 この子はそういう子だ。私がそう育てた。

 歪むことも汚れることも出来ずに、だから、余計に苦しむだろう。

 Lは、温まらずに冷えたままの自らの手に目を落とす。
 破れた胸の奥から、ぶくぶくと、どす黒く凍えた血の噴き出すのがわかった。

 ひゅうひゅうと白い雪を嬲る風の音に混じって、冬の声が聞こえる。




 おまえもいつか、俺のように




 「ワタリ」

 「何でございましょう」

 「少し、席を外してくれないか」




身の内から溢れ出す闇をせき止めることが出来ず、Lはこの夜、首を絞めながら義弟を凌辱した。 
















 

 

 

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