耳元で鳥の羽ばたくような音がした気がして、目が覚めました。

 上体を起こして窓のある方を見ると、明け方でした。
 白い薄いカーテンの向こうに、まだ日にさらされていない、青い空気が透けて見えました。耳元で羽音がしたと思ったのは、私の勘違いのようです。稜線からせり上ろうとする太陽の気配に、大きな庭木の陰にかたまっていたらしい雀の群が鳴きはじめていました。
 けだるい、情事の後の女のような気分で、私はやがてはっきりと覚醒しました。
 私は、ある見知らぬ男性の部屋に寝ていたのでした。いえ、もしかしたら、かつてはよく知っていた男性なのかもしれません。というのも、私には、眠りにつく前の記憶がないのです。私の隣で私を見守っていてくれたその男の人は、私に名前を尋ねましたが、私は答えることが出来ませんでした。私はどうやら、生活の基本動作以外の記憶を、すべて失ってしまったようなのです。
 そうと知ったときの私のうろたえようといったら、ああ、思い出すだけで顔から火が出そうです。私は、あの人の胸にすがって自分の名を問いました。あの人は笑って、まず私の額にキスをしました。そして、おかえり、と呟きました。

 おかえり。

 その言葉は、私がこの家にかつて居た人間であったという証なのでしょうか。しんと耳を突くような沈黙の後に発せられたその言葉に、私は少し落ち着くことが出来ましたが、それでもまだ、まるで糸の切れたたこのような気分でした。覚束なさに胸を締め付けられた私は、あの人に問いました。

「私には、家族があるのですか」

 あの人は答えました。

「ああ、いるよ」










 おまえが目を覚ましたのは、あの日から丁度一ヶ月後の明け方、丁度潮の引く時間帯だった。
 目が覚めたおまえは、記憶をなくしていた。と、言っても、日常生活には何ら問題はなかった。おまえの脳は、おまえ個人の人生についてのすべての記憶をなくしたのだ。

 私がおまえに盛った毒。
 人の命を奪い、記憶を狂わせる毒。
 あれは、私を生んだ女が持っていたものだ。
 あの女が隠し持っていたのをワタリが見つけて取り上げておいたのを、小賢しかった私は、誰にも見つかることないよう、ほんの少しだけ拝借した。

 あの毒は、私の宝物だった。
 勿論、実際に使うことなどないと思っていたが、これを飲めば何もかも忘れることができるという実感が、この仕事に慣れられずに辛い思いをしていた、少年の私を支えていた。
 私は父親のあとなど継ぎたくなかった。
 私はね、おまえは笑うかも知れないけれども…自分に適性さえあるのなら、ワタリの表の仕事のような、誰からも好かれるような職に就きたかった。
 しかし私にはその適正がなかった。
 私は生まれつき、愛されない子どもなのだ。
 だから誰も愛せない。残忍なことも平気でやってのけられる。人の目など気にせずに。
 そんな私にとって、あの薬は、精神安定剤のようなものだったんだよ。自分の手の中にある物で人の命が奪える、という優越感は、情緒の不安定な子どもだった私を、却って健康な様子の子どもにした。
 おまえが家に来てから、殊におまえが私の体を結わかれてしまってからは、存在さえ忘れる程度の支えだったけれども。


 おまえはもはやLではない。
 夜神と対峙し、夜神が殺したはずの‘おまえ’ではないのだ。
 夜神は確かに‘おまえ’を殺した。‘以前のおまえ’は‘死んだ’のだ。おまえはもう、竜崎でも、竜臥でも、ドヌーヴでも、コイルでも、「   」でも、そして私の弟ですらなく――――――――ただただ、人としての生活に不足しない記憶だけを備えた、生まれたばかりの赤ん坊なのだ。
 私はその赤ん坊を守るに足りるだけの手続きを済ませ、そうしてここまで来た。
 ここは、おまえが私の家に来たその年に、初めてワタリと3人で一緒に夏を過ごした家だ。

 おまえだけには、話してやろうと思っている。
 今、この環境が心地よいと思っている私がいることを。
 流れる時間が穏やか過ぎて、生来攻撃的な性質の私には物足りなく感じないこともない。しかし、今までは全てワタリにさせていた各種の手続きを、自分一人でこなしたせいか、私はいつになく疲れてしまったらしい。

 私にも休息が必要なのか。

 これを話すとおまえは笑うだろうか。
 私は今まで、自分には、休息などというふざけた贅沢は許されないのだと思っていたんだよ。


 目覚めたおまえがせがむので、私は長かった前髪を切った。視界が明るいので落ち着かないが、それも新鮮で心地よい。
 眼の露になった私を、おまえは少しも恐がらなかった。これが私には驚きだった。おまえは小さな頃から、私の眼をはっきりと見ようとしなかったから。そしてそれは仕方のないことだと私自身も思っていた。私の眼は恐いからね。

 おまえの眼が穏やかに私の眼を見る。
 今はこの心地よさに身を委ねていたい。
 おまえに毒を盛ったとき、私はもっと沈痛な未来を思い描いていた。もしも私の手が大きく震えて、人を仮死にするあの毒が、紅茶に大量に滑り落ちたとしても、私はそのままそれをおまえに与えたかもしれない。
 あの狂った子どもにおまえを殺されるぐらいなら、いっそ私がこの手で、とも考えたよ。

 でも、おまえの眼は開いた。
 おまえは神にすら愛されていた。
 おまえは生みなおされた。そして、愛しなおされる。
 
 これからおまえに、今はもう死んでしまった‘おまえ’がいたはずの、幸福な家族の記憶を話してやろうと思う。

 償いではない。それは今、私が望んでいることだ。

 私の言葉によっておまえの記憶の中で形作られるその光景は、決して嘘ではない。
 私は幼い頃、おまえを家の庭で拾った。おまえは2歳だった。
 私はね、私に出会う前のおまえを育てた女に逢ってきた。
 彼女はそう豊かでもない階層の、穏やかな女性だった。おまえがどういう経緯で彼女に預けられたか、それは私の知るところではない。
 彼女は――――――――おまえの育ての母親は、今でもおまえを愛しているよ。おまえの育ての父親も、おまえを案じているよ。
 2人は、おまえが帰って来たら渡してやるんだといって、おまえの結婚費用とやらをため込んでいた。

 だから、私が今から話すこのストーリーは嘘ではない。事実とは違うけれど、真実だ。おまえは愛されている。愛されているのだよ。父にも、母にも、ワタリにも。この、獣のような私からさえも。


 ひとつ、気がかりなことがある。

 もしもこの先、おまえが‘一度死ぬ前の自分’の記憶を取り戻すことがあれば、その時こそおまえは本当に死ぬのだろうか。
 おまえがキラと対峙していた頃の‘おまえ’に戻ってしまったら、同時にあの薄気味悪いノートの効力が蘇るような気が、私にはするのだ。おまえが、私を拒みながらも限りなく甘やかしていたあの頃のおまえに戻った瞬間に、私はもう一度おまえを失う。

 だから私には、永遠には続かないかもしれない今が愛しい。

 暗くて楽しい遊びはもう出来ないけれど、今のままでいい。
 離れることはしないよ。
 おまえがどこにいても、おまえの魂がどんな器に入っていても、たとえその器が蛇蝎の体であったとしても――――――――私は、どうしても、どんな形であろうとも、おまえを求めるだろうから。

 またいつか、求めるから。

 …いつか、おまえに、以前の記憶を蘇らせるのは、この私かもしれない。
 私の前髪は既に伸びはじめている。おまえから私への全幅の信頼が消えたあの夜は、また、訪れるかもしれない。

 いや、確実に私は―――この穏かな時に、いつか飽くだろう。
 
 私はそういう、呆れた生き方しかできない人間なんだよ。
 以前のおまえは、それを肌で感じていただろう。
 だからおまえは、私の嵐に黙ってじっと耐えていた。
 私のために。

 おまえは、そんなにも私を愛してくれていた。












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 ――――――――私はどうやら、生活の基本動作以外の記憶をすべて失ってしまったようなのです。
 そうと知ったときの私のうろたえようといったら、ああ、思い出すだけで顔から火が出そうです。私は、あの人の胸にすがって自分の名を問いました。あの人は笑って、まず私の額にキスをしました。そして、おかえり、と呟きました。

 おかえり。

 その言葉は、私がこの家にかつて居た人間であったという証なのでしょうか。しんと耳を突くような沈黙の後に発せられたその言葉に、私は少し落ち着くことが出来ましたが、それでもまだ、まるで糸の切れたたこのような気分でした。覚束なさに胸を締め付けられた私は、あの人に問いました。

「私には、家族があるのですか」

 あの人は答えました。

「ああ、いるよ」



「私が、ここに……」
 


 あの人は続けてそう言うと、涙声のような吐息を漏らし、私を強く抱きしめました。

















 

 

 

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