ホテルの入り口でふと上を見上げると、厚いどんよりとした雲が、まるで空に大きな蓋をするように頭上をどこまでも覆っている。
 こう曇っているのでは、昼間でもきらびやかなホテルの照明も、薄明るい部屋の中の派手なクリスマス飾りのようで、何だか間抜けだ。

 しかし自分のような凡人は、その場違いなクリスマス飾りの中に埋もれている、これも場違いなへろへろとした紙の七夕飾りのような気がする。

 はあ、と、陽の光恋しさに松田はため息をついた。

 かさかさと乾いた音を立てる街路樹。切るように冷たい風。
 冬は嫌いだ。
 春とか夏とか、暖かくて幸福な季節は好きだけれど、寒くて冷たい冬と、その冬に向かおうとする秋が、どうしても好きにはなれない。

 竜崎はいい。
 あまり外に出ないから、いい。

 なめられているのか、よく松田は竜崎に使い走りにされる。今日も、ここから一時間はかかる有名店まで、菓子を買いに行かされた。

 それもひと言、

 「ショートケーキがいいです。よろしく」

 これが相手が模木なら、

 「模木さん、申し訳ないのですが○○というお店まで、何でもいいですのでケーキを買いに行って頂けないでしょうか」

 となることは間違いない。
 局長相手なら、気を遣ってワタリに電話でもかけるだろう。馬鹿の松田でも、これだけは今までの竜崎の言動から予想がつく。

 松田はまた、ため息をついた。
 さっき最寄の駅の階段で、バランスを崩して転びかけ、ケーキの箱を大きく揺らしてしまった。きっとケーキは中で潰れている。潰れていなくても、形が崩れているのは間違いない。

 竜崎は、自分が食べる前から潰れたり形が崩れたりしたケーキには手をつけない。まるで我侭な猫だ。

 詰めが甘いと罵られるだろうな。
 別に罵られに帰ってきたわけではないのだが。
 これは自分で食べるとしよう。甘いものは苦手なのだけど。

 松田は三度目のため息を吐く。

 きっとまた買いに行かされるのだろうけど、気になることがあったので、ついホテルに帰ってきてしまった。

 今朝、松田に使いを頼む竜崎が急に顔をしかめたので、なんだろうと思って、

 「どうしたんですか」

 と、手を伸ばすと、竜崎は思いきりその手をはねのけた。
 痛いぐらいのはねのけ方に少々理不尽さを感じた松田だったが、竜崎のデニムを見てギョッとなった。
 そこには、暗い染みができていた。
 その染みは、暗いくせに奇妙に鮮やかで。

 (血)

 その時松田は、何故かそう直感した。

 機嫌の悪い竜崎にはいはいと従いながら、松田はできるだけ早くここに戻ろうとホテルを飛び出したのだ。
 だから、急ぎすぎて階段で転びかけてしまったのだけれど。

 (詰めが甘い)

 エレベーターの中で、松田は己の間抜けさに情けなくなる。

 そつなくこなす、ということが、松田には出来ない。松田には瞬発力が欠けているのだ。一瞬で判断を下しすぐさま行動することが出来ない。おろおろしてしまう。
 つまりは優柔不断なのだ。
 それぞれ実力者ぞろいの捜査本部の中で、最も役に立たない凡人といえる。

 松田はこうして上に忠実に従うしか売りの無い人間だ。人並みに正義感は持ち合わせているつもりだけれど、正義感だけが胸の内にあろうと、何の役にも立たない。小さな頃から夢だった警察官に実際なってみて、それは痛いほどよくわかる。気持ちばかりが先走ってドジを踏んでばかりの松田は、こうして竜崎に使い走りにされても文句は言えない。

 いや、使い走りにされているだけまだましだと思った方がいいのかも知れない。少なくとも、局長や竜崎のような尊敬に値すべき人間が、凡人の自分を使ってくれているという事実、それが今の松田には何ものにも代えがたい尊いことであって、だから松田は文句を言いそうになりながらもこうして、せっせと竜崎の命令に従っている。

 竜崎に関わるのは、どきどきする。
 竜崎は、松田の知らない世界の人間だ。
 松田が「こちら側」の人間だとすると、竜崎は「あちら側」の人間である。
 あの大きな黒い目で、一体何を見ているのだろう。
 松田は時々、覗き込みたくなる。
 自分のような人間には、不可解な世界だろうけれど。

 スイートルームの入り口で、松田は足を止めた。潰れているかもしれないケーキの箱を大事そうに抱え、そんな自分がやはりとても間抜けだとは思いながらも、特別に設えられた竜崎の寝室の扉をノックする。

 返答はない。

 眠ってでもいるのだろうと考えた松田は、一旦捜査本部になっている部屋へ、引き上げようとした。

 が、

 がちゃり。

 扉が開いて、中から松田の知らない男が姿を現した。

 奇妙な男だ。
 背が高くて肩幅も広く、がっしりした体つきをしているのに、全体的な印象はすらりとしている。
 鼻筋の通った端正な顔立ちなのに、何故か長く伸びた前髪が目を隠している。

 竜崎の変人具合に慣れてしまっている松田は、それでもあまり驚かずに、竜崎に呼ばれて捜査に協力している人だろうか、とそう考えた。竜崎の寝室にいるということは、それ以外に考えつかない。

 何だか、纏っている空気が竜崎に少し似ている。いや、ほとんど同質といってもいい。まるで一回り大きな竜崎のように見える。「L」の影武者かもしれない。

 ケーキの箱を大事そうに抱え、口をぽかんと開いている松田を見下ろしながら、男は口元だけを歪めてにこりと笑い、そうして低い声で、

 「ケーキはもういいんだそうです」

 と穏やかに言った。

 松田は特に意識もせずに、なんだ、と思いながら、ふっと眼球を部屋の中に向けた。
 細長くトリミングされた視界の中央で、何かが蠢いている。

 ふと、動物的な声が聞こえた気がして、松田の虹彩は引き絞られた。

 床の上でまぐわう見慣れた二つの体。

 (あ)

 血のついたデニムが傍らに落ちている。

 脳髄を鋭い爪でぎゅうと掴まれたような心地がして、松田はケーキの箱を抱えたまま、硬直した。

 あれは何だ。

 淡い色の体に揺らされて悲鳴をあげているのは。

 あれは竜ざ

 (助けなければ)

 「…竜崎!」

 松田が漸くそう叫ぶと同時に、扉はばたんと閉まってしまった。










 誰もいない捜査本部で、松田はうなだれて椅子に座り込んだ。
 硬く鎖された砦に闇雲に挑んだ手が、じんじんと痛む。

 模木や局長に助けを求めようと思ったが、辛うじてそれだけは思いとどまった。そうされることが竜崎にとってどういうことか、馬鹿の松田にもよくわかっている。

 もうまもなくワタリが帰ってくるはずだ。ベルトのバックルを何度も押したから。

 ぬるいお湯をかき回すように力なくティーパックを上下させると、ゆらゆらと琥珀色が白いティーカップの中にけぶる。
 ぽたぽたと頬を伝う涙をとめる事が出来ないまま、紅茶を口に運ぶと、濃くなりすぎた紅い液体は苦くて、松田の喉を余計に大きく震わした。


 箱の中のショートケーキは、やはり潰れてしまっていた。

















拍手で公開していたものです。
初の松田→竜崎です。page58以後のショックで一度没にしたのですが、
気持ちが落ち着いたので公開しました。
初期L・キラ月×竜崎シリーズの中の一つのつもりで書いたものです。
季節は冬。部屋の中で竜崎を襲っているのはキラ月です。

 

 

 

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