水妖

















 だってね、おまえが悪いんだよ、可愛いL。

 
 私を引きずり込んだのは、おまえの方じゃないか。

 私はもう、この、ほの暗い所から戻ることは出来ない。















 「また男と寝たのかい?」

 昼間からカーテンを閉め切り、薄暗い部屋の中。
 透明感を失くした空気がよどんだその中で、小粒だが無粋な赤みの見える白い首をやさしくさしのべてパソコンを覗いている弟の背後から、いきなり氷水でもかぶせてやるような気持ちで、Lは言った。

 捜査本部のあるビルの一室。
 捜査員が総出でも、彼だけはいるかと思ったワタリの姿は、部屋のどこにもなかった。竜崎の命令で、コンピュータルームでもいるのだろう。

 夜神月の姿もない。

 それもそのはず、彼は今、自ら望んだうえで監禁中である。
 もっとも、突然「はめられた」などとわけのわからないことを言い出し、竜崎、つまり彼の弟を困らせているのだが。
 彼を監視するモニターは、別室でワタリが確認しているのだろうか。この部屋のそれは電源が落ち、夜神の様子はうかがい知ることが出来ない。


 声をかけられた弟は、兄の厳しい声に全身の筋肉を強張らせ、奇形的に曲がった背は可哀想なぐらいに大きくびくりと縮み上がった。
 が、気丈にも声だけは震えない。

 「…捜査のためです」

 捜査のためなら誰とでも寝ろ、と、あなたがついこの前命じたのでしょう。

 ――――――という批難の言葉は、無理に飲み込んだのだろう。白いうなじの裏側で、咽喉仏が苦々しく上下するのを、Lは感じた。
 捜査のため、というと、この可愛い弟は、決して自分の命令には逆らわない。そこがたまらなくいじらしい。けれども、そのいじらしさが時として歯ごたえのない、苛立たしいものに感じられることもある。それは、決まってわけもなく自分の虫の居所の悪いときだ。
 
 「あの、松田という男はおまえに優しいのだろう?」

 「違います、松田さんではありません」

 「何故? あの男がおまえをどんな目で見ているか知っているか?」

 「聞きたくありません、私は監禁前の夜神月と寝ただけです」
 
 「捜査のためと言う割には、随分熱烈に痕を付けられたね」

 「もう消えかけています。だから松田さんじゃありません」

 「ほう」

 弟の肩を掴んでこちらを向かせると、大粒のオニキスのような目がLの額を射抜いた。
 まるで透明度の高い、それでいて陽の届かない、深い深い水底のようだとLは思った。










 松田をかばうような弟の物言いに腹を立てたわけではない。ただ、体が勝手に燃え上がった。


 「んう…」

 放置されたパソコンがくるくると画面を変えるのを背にして、Lは弟を押し倒した。
 肋骨の浮いた背をソファに押しつけ、口を吸いながら大腿の内側を撫でてやると、悩ましい身震いが弟の全身を走るのがわかった。嫌です、と口の中でうわ言のように繰り返してはいるが、弟の、少なくとも弟の身体の方には、自分を拒む気などないことを、Lはよくよく知っている。
 弟の大腿の間に、自らの膝を割り込ませ、股間にぎゅうと押し付けてやる。彼の可愛い弟は、切ながって弓なりに背をそらす。

 ぱくぱくと、酸素の少ない水に溺れる魚のように喘ぐ口を眺めながら、Lは底意地の悪い気分で考える。

 今日という今日は、この可愛い口から、全ての精気を吸い出してやろうか?
 それとも互いに互いの口を塞いでしまって、二人で永遠に溺れてしまおうか。

 優しい接吻を求めて声をあげる弟の唇をそれて、Lは白い首筋に焼けるようなキスを落とした。このまま思いっきり噛みついてやりたい、という衝動を今日は抑え、細身のまとう白いシャツをたくし上げた。鎖骨、胸、あばら、下腹部、また鎖骨へと唇を滑らせる。同時に、Lの、男にしては細い指が全身を愛撫しはじめ、弟は高い声をあげて髪を振り乱した。

 「はあッ…あう……」

 滑らかな肌をなぞる指が、唇が、時折ざらついた感触を通り過ぎる。

 竜崎の肌には細かな傷痕が沢山ついている。
 が、どれも永遠に消えないようなものではない。すべて、思い切り、しかし注意深く、Lがつけたものだ。
 弟の体に傷を残すのは自分だけ。傷をつけるというそのこと自体を許されるのも自分だけ。気まぐれな兄の作った勝手なルールを突きつけられても、弟は、海の底のような色の目で、それを丸ごと飲み込んで耐えている。少なくとも、今この瞬間までは。

 …そのいじらしさは、どうしようもなく愛しく、そして憎い。


 「この傷は…どうした。私がつけたのではないな」

 そこに辿り着いたとき、Lは低いうなり声を漏らした。

 こめかみに、小さな切り傷が、かさぶたになって盛り上がっている。
 いかにもナイフの使い方を知らなさそうな者の手による醜い傷を、Lは爪で軽く引っ掻いてみる。

 「あうッ…!」

 するどく尖った神経が、感覚をより鮮やかに伝えたのか、弟が白い喉をひらめかせてのけぞった。と、同時に、破れた皮膚からひと筋の血が流れる。

 「誰だい? はっきりしなさい。おまえ、自分に傷をつけた人間がわからないのかい?」

 再び唇めがけて迫る逞しい体躯に、胸元から下を完全に敷かれた弟は、逃げようとしたのか、下腹部に力を入れ、むなしく起き上がろうとした。が、かなう相手ではない。白く骨の浮いた背は無理に伸ばされ、またソファに密着させられる。
 言葉で責められる代わりに散々口を吸われ、唾液が糸を引いて光る弟の首筋に頬を寄せて、Lはやや怒ったように呟いてみた。

 「言いなさい、これは捜査だよ。
 ‘L’に‘誰’が接触したのかは、重大なことだろうが」

 「……」

 全く、弟の今日の強情はどうしたことだろう。普段ならもう少し素直に問いかけに答えるのに。
 
 確認を取らなくても察しはついている。
 見覚えのない深い傷は、全て夜神月がつけたものだ。他に考えられない…。
 本来はとび色をしているLの虹彩が、ぎらりと金色に燃えた。

 へたくそめが。傷を残さずに傷つける方法があるのを、あの男は知らないのか。

 キラは自分に似ている、と、弟に捜査の全権を渡す前から、Lは考えていた。
 キラは自分に似ている。
 有り余る力をもてあまして退屈する‘けだもの’だという点で。

 しかし彼奴は所詮は牙を持たない飼い犬、広大な牧場に飼われて周りを手厚く守る柵にも気がつかず、与えられたその中を自分の作り上げた世界だと信じて疑わぬ世間知らずの羊。

 忌々しい。

 と、同時に、世界にひとつしかないこの身体を、やすやすと傷つけさせた弟にも怒りがこみ上げる。

 「夜神との情事は、捜査の域を超えたんじゃないか? ‘L’」

 同じ名をもつ弟の衣服を、Lは獣のようなすばやさで剥ぎ取った。










 「目を開けてごらん、私のL」
 
 見開いた漆黒に映ったのはバスルームの天井だった。
 意識がはっきりするには、まだ少し時間がかかるだろう。Lは全裸の弟を抱き上げたまま、自分の白濁に汚れたその唇を舐めてやる。
 
 「…お兄さん」

 しばしの沈黙のあと、吐息のような声が漏れる。と、同時に、虚ろに開いた口の中から、貝殻のようにつややかな白い歯がのぞいた。
 息も絶えだえ、というのは大げさだろうが、キラ事件で過労気味の細い身体には、兄の嵐のような情熱は重荷だったようだ。
 
 「可哀想に、すまなかったね」

 血の気の薄い唇が、もう一度、おにいさん、と形だけをたどった。
 
 「汚れてしまったから、綺麗にしてあげる」

 どんなに優しい言葉をかけられてもそれは嘘だというのに、弟はわずかに安堵したような眼の色になった。
 抱き上げた、重みのまるでない体からわずかに力の抜けるのを感じ、Lは再び弟にむしゃぶりついてやりたくなる。

 可哀想に、とLは胸で呟いた。
 因果なものだ。私の所業が傷を与えるにもかかわらず、同じ男の口から生まれる言葉が、この可哀相な生贄を慰撫するのだから。

 やさしい眼の色をした弟を床に降ろし、座らせる。反射的に手をつこうとした弟は、あ、と小さな声をあげた。ネクタイで後ろ手に縛られた両腕を認識するのに、聡明な弟らしくもない時間がかかった。

 「大丈夫、私が綺麗にしてあげる」

 Lは蒼ざめる弟に、先ほどよりもずっと優しい声で言う。
 何度も経験してきた裏切りなのに、その度に、いつも初々しい弟を見つめながら。
 
 「ここにおいで」
 
 無理にバスタブのふちに腹を当てるようにして膝立ちにさせる。まだ覚醒しきっていない弟のその後頭部を軽く押し、たっぷりと水を湛えたその中を覗きこませると、彼は急に暴れだした。

 Lは自分も膝をつき、弟の背後にぴったりと身体をつけた。むき出しの肌に兄の衣服の感触を感じ取った弟は、自らの不利を今更のように自覚したらしく、ますます健気に身を震わせて逃れようと力んだ。が、疲労した身体はいたずらに軋むだけで、膝を曲げて水面から顔を離すことも、兄の圧迫から抜け出すこともできなかった。

 Lはその腕を弟の上半身に巻きつけて支え、余った方の手で、背後から弟の髪を鷲づかみにした。
 一度頭を持ち上げ背をそらせ、弟の白い頬が強張っているらしいのを肩越しに確認してから、巻きつけた腕を外して、弟の頭部を一気に水の中に突っ込む。
 ごぼごぼと、抗議の代わりに、泡のたつ音がする。
 すぐに引き上げ、再び腕で拘束しながら

 「こうすると目も覚めるだろう?」

 と言ってやると、弟は冷たい飛沫を飛ばしながら顔を横に振る。
 
 「今日は特に顔ばかり汚したからね、ほら」

 再び頭を水の中に押し込んでやる。
 ごぼごぼと音。
 引き上げる。
 冷たい飛沫。

 やがて水中での抗議を無益と見たらしく、弟は水中では息を止め、身体だけでもがくようになった。
 水面のあまり波立たないのを不満に思ったLは、バスタブに上半身を埋める形になった弟の背後から、腕をじわりと伸ばし、指先で胸の突起を探り当て、強くつまんだ。
 ごぼ、と音がして、一塊の泡が水面をさざめかせた。獲物は無粋な愛撫から逃れたい一心から反射的に敵と逆方向へ向かおうとし、結果、頭部はほぼ全て水に浸かってしまい、ますます深みにはまる羽目になった。
 
 水面の動揺と弟の影とを映しているバスタブの白い底を、その中にたゆたう弟の漆黒の髪を、Lはしばらくぼうっと眺めた。
 弟の白い首筋は、水の中に入るとますます青白い。
 
 冷たく澄んだ甕覗きの水に、少しだけ濁った煙のようなものが糸を引いた。
 水面に叩きつけられた衝撃で、夜神にやられた傷口が破れたらしく、少し血が流れているようだ。


 綺麗だ。


 Lは水とその中の弟の姿に見入った。

 私の方が、このまま水の中に引きずり込まれそうだ。

 …水の中で見る弟はどんなに綺麗だろう。全身が青白くなり、水面のきらめきがゆらゆらと肌に降り、髪は漆黒のまま揺れて広がって…。


 そのまま、銀色の気泡をぷつぷつと吐きながら、二人で暗い水底へ沈んでいく。



 ごぼッ!!



 ひときわ大きな抵抗にLは我に返った。
 力の抜けた兄の手に逆らって、必死で顔を上げようとしている弟の髪を持って引き上げてみると、酷くむせ込んでいる。

 「ああ……いたずらが過ぎたね」

 おかしな空想に耽っている間に、思ったより時間が経っていたらしい。

 勿論、力の加減は心得ているので生命に関わるほどではない。が、体の自由の利かぬ弟には、不安の方が大きかったのだろう。

 そんな風に考えると、Lは急激に水の遊戯に飽いた。
 弟を水から離し、膝の上に抱き上げる。べったりと濡れたジーンズを通して、弟の胸が必死に空気を求めてふくらみ、縮むのがわかる。

 それに応える代わりに獲物の手首を縛っていたネクタイを解くと、可哀想な弟は咄嗟に自分の胸に手をやった。そしてそこにまだ力強く生命の火が燃えているのを確認したとたん、腕はだらりと重力に引かれて、手の甲が床に落ちた。

 胸元から、痛々しく拘束の痕のついた手が滑り落ちる瞬間、Lは先ほどまで自分が慰んでいた弟の胸の片方の突起だけが、鮮やかな赤みを帯びているのを見た。
 くにゃりとのびてしまった弟の、少し血に汚れた白い額にうっすらとかかった黒髪を掻き分けてやりながら、Lは口元に笑みを浮かべる。


 「おまえが悪いんだよ、可愛いL」

 
 私を引きずり込んだのは、おまえの方じゃないか。

 私はもう、この、ほの暗い水から戻ることは出来ない。
 
 みんなおまえが悪いんだよ、L。

 私をこんなさみしい倒錯の水底に引き込んだのなら、最後までこの孤独を埋めてもらおうか。


 私の愛しい‘  ’…………。










 胸元に再び暗い炎を燃しながらも、今日の遊戯には飽きたLは、弟の傷の手当てをし、その細い身体のはじいている水滴を拭ってやった。ただし、濡れた髪の、白い頬にうっすらかかっているのだけはもう少し眺めていたくて、そこだけ世話をしてやらなかったが。

 過度の疲労と緊張の糸の切れたことから、墜落するように眠ってしまった弟を抱えて振り返ると、バスルームはもう、散らかっているだけのただの部屋だった。
 寝息をたてる弟をベッドに寝かせ、Lは自分もその側に身を横たえた。

 そして、ワタリの戻ってくるまでの短い時間、弟の白い手に引かれて、しずかに水底へ沈む自分の白昼夢を見ていた。
















 

あとがき

 

 

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