スプーン

















「飯でも食いに行くか」

 相沢に誘われ、松田はデスクの前に座ったまま、「はい」と言うつもりで「あい」と、大きなあくびをひとつした。

 月が死んだあの日から、相沢は頻繁に仲間を食事に誘う。食事と言いながら先に立つ相沢の足の向かうのは、決まって焼き鳥屋や焼肉屋で、席についても、松田が片っ端から肉を食うのを見つめ、話も松田の喋るのをふんふんと聞きながら、安い酒をあおっている。
 相沢が、特に松田をよく誘うのは、彼の能天気な笑い上戸に救われるのと、模木や伊出が仲間と飲むたちでもなく、揃って所帯持ちになったせいもある。松田の方も、相沢の誘いはなるべく断らない。相沢の自棄酒の原因を何となく知っているし、彼の自棄酒は、弱いくせに際限がないというのも聞いているので、松田なりに放っておけない気になる。
 相沢の苦悩の原因を知るのは、恐らくあの事件に関わった者ばかりで、だとすれば、伊出はともかく、模木にまで断られたのでは、彼は声をかける相手もない。

 その一方で、三度に一度は「今日はボクが」と先にレジの前に立とうとするが、結局は先輩の財布に甘えてしまうのも松田だ。ひとり身なのもあって、単純に、にぎやかなところであたたかい飯にありつける魅力には逆らいがたい。
 相沢もそれを知りつつ、陰陰滅滅としたひとり酒から逃れようとしていた部分もある。


 相沢の背を追って外に出ると、雨の匂いが顔を覆った。ああ、くそ、降っていやがる、と、雨の嫌いな相沢は忌々しげに呟いた。松田は今朝方自分の下宿に来ていた祖母の、無理に持たせてくれた折り畳み傘を思い出し、鞄から引っ張り出した。

「おい、タクシーにしようぜ、男二人があいあい傘だなんて気色悪い」

 と、ぶつぶつ言う相沢を無理に傘に入れ、松田はふと頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。

「相沢さん、まだそんなに悩んでます?」

 相変わらず豊かな髪の相沢に何とはなしに老いを感じるのは、その硬い髪に白いものが目立っているからである。
 ふっつりと言葉の止んだ相沢に、松田は自分が気まずいことを言ってしまった気になったが、遅かった。
 狭い傘の中で相沢は、厳しいような優しいような眼を松田に向けた。

 相沢さん、死んだ年の夜神局長に似ている。

 松田はそんなことを考え、咄嗟に相沢から目をそらした。
 気まずいまま足だけは前に進み、松田の傘を持つ手は次第に冷えた。

「…月君の」

 それだけ言って、松田は相沢の顔色をうかがった。相沢は夜神局長を特別に慕っていた。それ故か、夜神局長の部下の中では、彼が一番月を可愛がっていたというのを、松田は模木から伝え聞いている。

「あれは、仕方ないんですよ。僕らでは…」

 大きく息を吸う。湿り気を帯びた空気が肺に満ちる。吐き出しても水気は消えない。じっとりと体中が湿ってくる。

「僕らでは、どうしようもない」

 だってあのLでさえ、と言いかけて松田は不意に咽喉が苦くなり、ぐっとつばを飲み込んだ。
 L。竜崎。
 ついに名を知ることはなかったその人の幻は、目の前の青い雨の空気にふらりと浮かび、背を向けて消えた。

「すまん松田、今日はやめにしよう」

 黙った松田に相沢は言った。

「今日はやめだ。すまん」

 早口にそうまくし立てると、相沢は松田が止めるのも聞かず、傘を出、水しぶきを上げながら一目散に駅の方へ走っていった。
 取り残された松田は、しばらく茫然とその場に立った。











 ドアノブを回しても自宅の扉は開かず、そうだ、祖母は今日自分のいない間に実家に帰ったんだと気づくまでしばらくかかった。
 あらかじめ指定しておいた隠し場所から鍵を取り出し、真っ暗な部屋へ足を踏み入れると、そこには飯を炊いた匂いが漂っている。見るとテーブルの上に手紙もなしに夜食が置いてあり、それはまだ幽かにあたたかく、松田はふと、祖母は自分の帰りをぎりぎりまで待っていたのではないかと思った。

 かしこまってテーブルに座り、埃よけにラップで丁寧に密封された煮物とおひたし、それに魚の焼いたのを眺める。
 そういえば、最近外食が多いと言ったとき、おばあちゃんはとても心配そうに野菜をとるように言っていたっけ。

 松田は不意に、今頃自宅に帰ったであろう相沢を思った。相沢には子どもがいる。この時間なら子どもは起きていて、帰宅した父親に飛びつくんじゃないか。奥さんは、飲んでくるんじゃなかったの、車を置いて出るから遅いんだと思ってたわよ、などと文句を言いながら、あり合わせのものでも出してくれるんだろう。
 そんな想像をしてみると、松田には未だひとり身の寂しさが実感として胸に突き上げて来、こんな孤独を味わうんだったら無理に下宿を借りるんじゃなかった、と、子どものようなことを思った。

 根菜と葉ものの食事をありがたく頂き、松田は食後のコーヒーを淹れることにした。
 食器棚にはいつ買ったのか知れないインスタントのものしかなく、改めて賞味期限を確認し、蓋がきちんと閉まっていなかったのか不細工な塊になったそれをティースプーンで砕き、すくってカップに入れて、そして松田は手を止めた。


 竜崎。


 今自分の何気なく握ったその銀色のスプーンは、紛れもなく、竜崎の使っていたものだった。
 見覚えのあるホテルの銘の入ったそれを握りしめ、松田は暗いキッチンで硬直した。何でこんなものがここに紛れ込んでいるのか、それを理解するまで松田の金縛りは解けなかった。




『竜崎、その持ち方どうやったらできるんですか』

『…指先に力を入れればできます』

『こうですか…うわッ』

『ああ、こぼしましたね、松田のへたくそ』




 竜崎のティーカップとスプーンの持ち方を真似ているのは松田。
 笑っているのは竜崎。
 他愛のない会話は、直後ワタリの持ってきたキラ事件の資料によって途絶えてしまった。
 その時、慌てすぎて、自分は手にしたティースプーンを鞄にでも押し込んだのだろう。

 くすくす、と笑う竜崎が闇に浮かんで消えた。
 どうして今、こんなことを思い出すのか。

 捜査の途中から自分を呼び捨てにした竜崎。
 菓子ばかり食べていた竜崎。
 野菜をとらないと、という松田に、鬱陶しげな視線を投げて寄越した竜崎。
 竜崎。竜崎。

 何故あの人はあの時、あんな顔を僕に見せたのだろう。
 どうしてあんなに無防備な笑顔を見せたのだろう。
 世界の名探偵Lが、地を這う使い走りに、そんな気になっているだなんて夢にも思わなかったけれども。

 あの人は、僕らをそれほどまでに信頼してくれていたのかもしれない。
 警察からさえ見放された僕らを、あの人だけは信頼してくれていたのかもしれない。

 そうなんですか竜崎。
 
 問うべき相手はもうこの世にはない。

 竜崎、あなたはずっとひとりだったんですか。
 どうして信頼してくれなくて寂しいと言わなかったんですか。
 どうして「もっと僕を信じてください」と言わなかったんですか。
 僕らがあなたの信頼に、信頼をもって返さないのを、どうして許してしまったんですか。

 孤独とは周りに人のないことを言うのではない。自分に肯く者のないことを言うのだ。

 そう思った瞬間、松田の背骨をぞっとするほどの後悔がはしった。
 今しもポットがしゅうしゅうと湯気を立てはじめているのが、松田の目には入らない。
 松田は今、大声で「竜崎」と叫びたかった。
 そして今更、相沢の老け込むほどの苦悩の根源に思い当たった。



















 

 

 

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