おまえの小さな頃、私はよくおまえに絵本を読んでやった。
 おまえは頭がよかったから、自分で絵本を読むことも出来ただろうに、必ず私か、私がいなければワタリに読むようにせがんだ。
 引っ込み思案だったおまえは、そうすることでしか甘える口実を見つけられなかったのだろうと私は考えているが、正解だろう。

 おまえは優しい子だから、主人公が悲しい思いをする物語は嫌いだった。私は意地悪だから、ときどきわざとおまえの嫌がるような内容の絵本を選んで読んでやった。
 そうするとおまえは、目にいっぱい涙をためて、ページをめくる私の指をじっと見る。私はそのたびに、おまえを強く抱きしめて、おまえに謝ったものだ。

 「ああ、ごめん、お兄ちゃんが悪かったよ。おまえがこんなに悲しくなるお話だなんて知らなかったんだ」
 
 そして必ず最後まで話しておまえを安心させた。最後まで不幸な話は、いつか本当の話を知るだろうとは思いながらも、私が勝手にハッピーエンドに変えた。
 「めでたしめでたし」
 私がそう締めくくると、おまえは安心したようににっこりと笑った。




 ある夜おまえは古びた絵本を持って私の寝室に来た。おまえが抱きかかえていた本は、私の幼い頃のものだった。その時私はもう十五六にはなっていただろうか。私が忘れてしまっていたものを、おまえは何処から見つけてきたのか。

 あの夜、おまえが抱きしめるように持ってきたのは‘赤ずきん’。
 私の記憶に間違いがなければ、世界中のおもだった童話を、おまえは七つになる前に、読み尽くしてしまったように思う。

 ベッドの上で二人でうつ伏せになり、絵本を開いて読む。
 「あかずきんちゃんがかわいそうです」
 おまえは愚かな主人公が喰われてしまうくだりで悲鳴のように呟いた。
 「そうだね、でも、」
 私は言いよどんだ。

 童話だの伝承だのには、何らかの教訓が含められている。
 それは案外、恐ろしく現実的で、陰惨なものだ。
 喰われてしまったと表現されてはいるが、つまるところ、赤ずきんは狼に犯されたのだ。
 赤ずきんは自らの若さと美しさと賢さに奢って、狼に強姦されたのだ。
 あの時の私はどういうわけか、大人にとってはなはだわかりやすいこの教訓の意味を、小さなおまえに伝えようと、一瞬考えたようだった。

 狼に近づいてはいけないよ。
 狼に声をかけられても答えてはいけないよ。
 狼に近づいたら、おまえは危うい目に遭うことになる。

 ――――――――――――狼に近づいたら。

 私は狼に自分を重ねていたのかもしれない。
 私はおまえが私の庭に現れたそのときから、おまえを好きでたまらなかった。おまえが何か、決して許されないことをすれば、すかさずおまえを閉じ込めて、お仕置きと称した醜いおこないをしたかもしれなかった。

 あの頃の私はがらにもなく、少し悩んでいたのだよ。自分は小児性愛者だったのか、とね。
 
 「おにいさん?」
 言葉の出ない私を、おまえは怪訝そうに見上げた。私は我に返って自分を恥じた。そんなことがあってたまるか、と。小さな子どもがそんな無残な目に遭ってはいけない。

 そんなことは私自身が許さない。私はこの子を愛しているが、それは家族愛にすぎないのだ。この子がまだこんなにも小さいから、自分は庇護欲に燃えているだけなのだ。それを恋と勘違いしてはいけない。
 ただでさえ自分は幼い頃からあまりにも醜い性癖の人間ばかりを見てきたから、少しあちら側に引きずり込まれかけていただけなのだろう、と、その時の私はそう考えた。

 「ひどいです」
 私が読み終えた絵本を机の上に置くと、おまえは私のベッドにうつ伏せになったまま、再び口を開いた。
 「何が」
 私はもう何も言うつもりはなかった。赤ずきんは確かに愚かだが、悪い狼は強い猟師によって罰せられる。赤ずきんは処女喪失の痛みを魅力という名の武器に変え、いよいよ女として生きはじめる。
 それでいい。それでいいし、おまえは未だそんな現実など知らなくてもいい。おまえは未だ子どもだから。こんな醜いお話に、これ以上傷つかなくてもいいよ。
 
 (しかし、いくら悪い狼でも、罪を負って死んでしまうのは、おまえにとってはやりすぎなんだろう)
 おまえの、見えない何かに抗議するように震える肩を見ながら、いつものように無理矢理ハッピーエンドを作り出そうとした私の頭に、おまえの問いが続けさまに響いた。

 「おおかみさんは、どうしておなかをさかれたんですか」

 悪人は罰せられなければならないからだよ。

 「おおかみさんは、どうしておなかにいしをつめられたのですか」

 それほど罪が重いということだよ。

 「おおかみさんは、どうしてしななければならなかったのですか」

 それはこれから先、二度と赤ずきんを、


 ――――――――――――――ああ。


 その時のおまえの問いが、無邪気でまっすぐな怒りに震えたその問いが、その後如何に私を苦しめることになるかなど、その時の私には想像もできなかった。
 けれども奇妙な予感がした。私はその時、自分が‘性癖’とはかけ離れたところでおまえを好きなのだと自覚した。

 私は、おまえが少女であっても、一人前の女であっても、年老いた老婆であっても、私と同じぐらいの男性であっても、いや、犬や猫や、たとえ蛇蝎であったとしても――――――おまえに惹かれる狼であっただろう。

 「狼さんは、悪い奴だからさ…」
 私はようやくそれだけ答えた。おまえは不満げにまだ何か言おうとしたが、私は黙って小さな頭を撫でて言葉を封じた。

 いつか私は、この思いを遂げることがあるのだろうか。

 奇妙な予感に身震いをし、うとうとしはじめたおまえの側に身を寄せて、私はふと時計を見た。真夜中だ。
 私はしだいに子どもらしいぬくぬくとした眠りの体温に変じていくおまえを抱きしめた。

 いつか私は、この思いを遂げてしまうのだろうか。

 不吉なことを考えながら、おまえの言葉を反芻する。
 『おおかみさんは、どうしてしななければならなかったのですか』
 それは、おまえを傷つけることのないように。


 私の優しい赤ずきん、これから先はずっと気をつけて森を歩くといいよ。
 おまえの狼は未だ死んではいないのだから。

 そう呟いて、私はおまえの隣で目を閉じた。









 

                    あとがき(いいわけ)

             

 

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