名前















 開いたままの窓から、ひやりと冷たい夜風が流れ込んで、足元にからみつく。どこで咲いているのだろう、沈丁花の香りがする。窓から身を乗り出してはみたが、ひたひたとビルの隙間を満たす闇は、一瞬にして投げかける視線を吸い取ってしまった。

 花を諦めて窓にもたれる。窓枠は、夜風に冷えてひやりと冷たい。
 かちかちと、秒針の音。
 普段使わない部屋は人のにおいがしなくて落ち着かない。

 夜神月の監禁と監視を不本意ながらやめることになり、ヨツバなる企業が新たなキラと関わっていることがわかり、ますますキラ事件が混迷を極めて少々滅入った竜崎は、気分転換にとビルの中を散歩してみたのだが、真新しい、ほんの十人足らずのみしか歩くことのないビルの中には、どこもかしこも突き放したような白々しい高級感が満ち、たまに申し訳程度に観葉植物が置かれているだけだったので、内心がっかりしていたのである。

 こんなに浮世離れした世間知らずの自分でも人の気配が恋しいものなのかと、何だか可笑しくなる。
 仕方無しに何となく地面の方へ下り、その中の未使用の部屋の窓を大きく開けてみ、漂う香りにわずかに心を癒されはしたが花を探して見つからず、竜崎はますます気の滅入るような気がして、側のベッドに腰かけた。

 そうしてみて初めて、ようやく疲れた体を休めることを思いつき、竜崎はこれも未使用のベッドに体を投げ出した。

 ばさ、と鴉の濡れ羽色の髪がひろがる。

 横になってはみたものの、今度は秒針の音が敏感な耳を刺すから、意図的に大きなため息をついて、その音を消そうと試みる。

 「悪くないですね、地面に近い階というのも」

 誰に語りかけるでもなくひとりごちた竜崎は、このビルの本当の持ち主を思い出して少しだけ身震いした。
 このビルのすべての部屋は、あの人の好みにそろえられている。だから竜崎には部屋のそこかしこから突然あの人の声が飛んでくるように感じられて、小さな物音にもびくびくとなる。

 初めて兄に抱かれた部屋に酷似した部屋の空気。

 いくらあの人でも、そんなことまで意識してこのビルをつくらせたわけではないとは思うけれど、気持ちの弱りかけた竜崎にはすべてがとても息苦しい。勿論そんな本心は表に出さないけれど。

 (竜崎)

 爪を噛みながら胸の中で自分の名をひと文字ずつたどってみる。この呼び名にも随分と慣れてきた。
 兄に無理矢理抱かれて以来、竜崎には「L」の呼び名が胸を刺すように感じられた。だからというわけでもないのだが、日本に来てから偽名をこしらえた。そもそも「L」という呼び名自体が偽名ではあったのだが。

 竜。

 小さな頃憧れていた強く猛々しい「ドラゴン」の意味を持つ一文字。
 大きく強いものに己を重ねるいかにも子どもらしい無邪気な憧れは、今や切実に力を欲する弱者の祈りにすりかわってしまった。

 …竜。

 兄の優しい声がそう呼んでいるようで、竜崎は、ぎゅうと背中を丸め身を縮め、耳を塞いで目を閉じた。
 あの夜以来、兄は自分の本当の名を呼ばない。あるいは下男にでも対するような尊大な態度で「おまえ」と呼び、あるいは今ともに戦っている捜査本部の連中と同じに「竜崎」と呼び、そしてたまさか口の端を吊り上げながら、いかにも面白そうに「L」と呼ぶのである。

 もっとも、兄しか知らない「竜崎」の本当の名前は、あんなことになってしまう前から特別な意味を持っていた。
 小さな頃、二人きりのとき、とりわけ特別なことがあったときにだけ、兄は自分の本当の名を呼んだものだった。自分の誕生日や、兄の誕生日や、テニスの大会で優勝したとき、初めて学校へ行く前の夜、卒業式の日、そして。

 「・・・・・」

 自分が日本へ発つ少し前、「L」の名を名乗ることを許されたあの夜。

 愛する兄の名を継ぐという無上の喜びのさか巻く中、まさに真の竜となり空へ昇ろうとする竜崎を、豹変した兄の手が地の底へと叩き落した。

 「愛しているよ、私の可愛い『     』」

 身を引き裂く激痛とともに耳に注ぎ込まれた自分の名前。
 その日を最後に、兄は自分の名を呼ばない。

 (呼んで欲しいのだろうか)

 竜崎は自分の名のことばかりを考えている己に気がついて、苦笑した。名前を呼ばれないだけでこんなにも覚束なくなる自分が、竜崎には可笑しくてたまらない。
 恐らくこの不安は、名前が単に個を識別するためのものではなくて、えこひいきの情が呼ばせる愛の記号だと知っているがゆえに感じるのである。

 名前とは特別に想うものにつけるものだと竜崎は思う。自分にも覚えがある。幼い頃、ぬいぐるみに名前をつけて、飽きるまでずっと呼んでいた。それは、そのぬいぐるみが兄によって与えられたもので、小さな竜崎にとって特別に愛着のあるものだったからである。だからたとえ血の通わぬものであったとしても、名を与えたいと思った。そしてその名を呼びたいと思った。

 思えば拾われた犬も、生みおとされた赤ん坊も、みな彼を特別に想う者によって特別な名を与えられるのだ。

 では。

 竜崎はふと思いあたってどきりとする。

 (兄にとって私は特別なものではなくなったのだろうか)

 いやな色をした濁った血が胸に流れ込む。

 (そういえば、あのぬいぐるみをどうしただろう)

 記憶がない。捨てたのだろうか。

 遊び飽きて?

 (私は、)

 竜崎は自分の思考に因って狼狽した。自分の他に人のいない油断がそれに余計に拍車をかけた。
 ふるふると、耳を塞ぐ両手が震えた。

 (飽きられた…のか)

 閉じていたまぶたが開いたその時。

 沈丁花の香りが強くなった。

 ぎしり。

 開いたままの窓が音を立てる。

 「疲れたのか?」

 ぎくりとして体を起こす。長身の男がひとり、窓に座ってこちらを見ている。長い前髪とにこやかに微笑むその唇の内に、底知れない闇を湛えて。

 「おにい・・・・さ、ん」

 防衛本能が神経をかけめぐり、思わず身構える。男は音もなく窓から降り、ベッドのそばに仁王立ちになった。

 きし。

 竜崎が震えてベッドが軋んだ。
 兄の長身で窓が隠れて、その光景がもたらす威圧感に、竜崎は探せばあるはずの逃げ道を見失う。

 「どうしたの、こんな部屋にいるなんて珍しいね」

 声がする。あの夜自分を引き裂いた優しげな声が。

 「何か、ご用ですか」

 声が情けなく震えた。

 自分を引き裂いた男、卑劣極まりない手段でまともな雄でなくした男、その気になれば自分を絞め殺すこともできるその大きな冷たい手。
 竜崎は弾かれたようにベッドから飛び降りようとしたが、拳で強かに殴られ倒れて、完全に退路を断たれた。大きな手のひら一つで細い両手首を束ねられ、腕を思いきり異常な方向へ捻じ曲げられて、竜崎は苦悶の声をあげる。

「ふふふ」

 残忍な笑みを浮かべて男が笑う。しゃがみ、怯える獲物の頸にあいた手をかけ、力を込める。ぎり、と爪が膚にめり込み、竜崎は、ひい、とかすれた声をあげた。
 兄は草むらにたまたま親のない仔兎を見つけた狼のように、いかにも嬉しそうに獲物を見た。

 怖気と記憶が体中を駆ける。
 腕の痛みを忘れて暴れようとする竜崎の耳に、Lは熱い息をかけながら呟いた。

 「この部屋、よく似ているだろう。私の部屋に。
 ただおまえの言うとおりにビルを建てるだけでは面白くないからね、私だけがどこからでも忍び込めるように設えたんだよ。こうしておまえにいつでも逢えるように。
 どうだ?なかなか面白い仕掛けだろう?」

 いやな方向に曲がったままの腕を更に捻られ悲鳴をあげた竜崎は、そのまま兄の影と花の香りとに呑みこまれた。










 帰ってくる。

 夜神月が帰ってくる。

 捜査本部の連中が帰ってくる。

 ワタリも帰ってくる。

 早く、早くしなければ。

 体を起こして、シャワーを浴びて。

 残滓をすべて、ぬぐってしまわなければ。

 体の痛みは我慢できる。

 体に施された烙印も服で覆えばわからない。

 はずされていた腕と脚の関節も元通りにはめられた。

 声をあげていたのは自分ではない。

 泣き叫んでいたのも、自分ではない。

 暴力を受けたのも、惨めに汚されたのも、みんな「竜崎」だ。

 竜崎というぬいぐるみだ。
 
 体を這う舌も、無遠慮に侵入する切っ先も、突きつけられていた目的なき熱も、すべての感覚はもうすぐ「L」に戻って消える。

 消える。
 
 きっと消える。

 『竜崎、竜崎…』

 未だ体内に熱を残したままの兄の幻影が耳もとで自分をそう呼んで、「L」は耳を塞いだ。
 
 そして、塞ぎきれない聴覚で自らの手のひらにごうごうと血の流れる音を拾いながら思った。

 (私にはもう名前がないのだ、私はもう本当にただの物なのだ。誰にとっても在るだけの物なのだ。「物」が自分の胸のうちのことなど思考しなくてもよいのだ。)

 それなのに。

 (何を泣くことがある。何を…)

 ベッドの上で、濡らされた体のまま、人形のように転がって、彼はただ茫然と涙を流しつづけた。










 沈丁花の香りが漂っている。
 静かな春の月夜は、空を拒むビルの谷間にもまったく平等にやさしい光を落としている。

 「いい月だな」

 煙草から唇をはなし、ふうと煙を吐きながら、Lは機嫌よくひとりごつ。
 コンクリートの植え込みは街の明かりに汚されてしまってはいるが、それでもうっすらと冷たい月の光がのっているようにも見えた。
 そこに腰かける男のぼやけた輪郭を見とめた青年が、声をかける。

 「いいんですか?(Lの身代わりなのに)こんなところにいて」

 キラではないかと疑いのかかっている細身の青年は、にこやかに言いながらも、煙草の煙にそれとわからないほどにわずかに顔をしかめた。

「月君こそ、もう遅いよ。休んだらどうだい」

 承知するように会釈をしてビルの(正規の)入り口へと歩み去る若者に向かって愛想良く手を振りながら、本物の「L」はまた一口、煙を吸った。
 紅く燃えあがる先端に眼をむけ、続いて己の手首に視線を落とす。

 腕の関節をはずす寸前に、死に物狂いの玩具に引っ掻かれた傷痕が、月光の青さの前に未だ濡れて黒い。

 「それにしても…」

 風が出てきた。立ち昇るほそながい煙はその繊細なかたちを崩され、霧散する。
 風に撫でられ騒いだ植え込みの沈丁花が、一段と強く香る。

 「…生意気な玩具だ」

 戯れにみずみずしい沈丁花のほそい枝をなぞるようにして煙草の火を触れると、わずかに細胞の焼け死ぬ音がした。焦げ臭い匂いが一瞬立ち上ったと思うが早いか、ビルの谷間に吹く風が全てをさらっていく。

 Lは満足げににこりと笑い、改めて火種をアスファルトに落とし、踏みにじって息の根を止めた。
 
 ざ、と立ち上がる彼の靴の音が、やけに大きく静寂にこだます。

 「…名前もないくせに、自分を傷つけまいとするだけの心はあるのか」

 そのまま「L」は植え込みに背を向け、先ほどの青年が去ったのと同じ自らの根城へと赴いた。

その背を見送りながら、沈丁花は風になぶられ、夜露に濡れ、わずかに、
――――――――わなないいていた。


















 

 

 

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