夢魔
まだ私が少年だった頃のことだ。
夏になると、私はよく兄の眼を盗んで家を抜け出し、広い庭の草木の陰に寝転んだ。うだるように暑い真夏の午後。私はむせかえるような草木の生気にすっぽりと包み込まれ、そこでしばらく昼寝をするのだった。
そこで眠っていると、私は決まって軽くうなされた。けれども、多少の不快とともにやってくる浅い眠りは、少年の私にとって、どういうわけか、はなはだ魅力的なものだった。私の肺は夏の太陽に狂った植物たちの生気に満たされ、その窒息しそうなほどの甘さに酔いしれる。人並み以上に神経質だった私だが、自らの汗ばんだ肌に、自分の背に踏まれて折れた植物の樹液が付着することは厭わなかった。いや、ともすればその感触やにおいを好んでいたようなところさえある。
兄は、肌の弱い私が日に焼け、ひどい爛れに苦しむのを見過ごしてはおけなかったのだろう。時おりまどろみのさ中にある私を見つけては、立場をわきまえなさいと叱咤した。しかし、私はこの密やかな楽しみを手放すことが出来なかった。私は夏が好きだった。狂ったように暑い夏が。
あの日、私はいつものように部屋を抜け出して外に出た。特別に暑い日だった。私はいつもの茂みに行き、そっと身体を横たえた。徹底的に手入れされている庭の中でも、死角になっている草の少し伸びた木陰。私は寝転んだまま木漏れ日のせわしなくきらきらと光るのを眺めた。
草木がぬるい風によそぐ度、息苦しいほどの生気が私の呼吸器官を満たし、塞いだ。ねっとりと、有機質の熱気が私の膚に絡みついた。煩わしさに翻弄されながら、私は次第にうとうとと眠りに誘われだした。じんと、全身が痺れるような気がした。
こうして苦しい眠りに堕ちていくとき、私は決まってつま先から頭に向かって駆け抜けていくぞくぞくとした感覚を感じるのだった。この時は特にその感覚は鋭いものであったように記憶している。
私はやがて、うなされながらいつものように浅い眠りに沈んだ。
私は夢を見ている。私は夢の中でも、暑さに苛まれながら木陰に横たわっている。どういうわけか全裸だ。
視界の隅の草むらがわずかに揺れた。にゅうと顔を覗かせたのは一匹の蛇だった。蛇は庭の奥から鎌首をもたげ、こちらを見た。成人男性の腕ほどの太さの、真っ黒な大きな蛇だ。冷たい、険しい顔をしている。炎のような舌をちろちろと吐きながら、ためらうことなく、こちらに這いよってくる。
する。
するするする。
私は逃げようとする。しかし身体は金縛りにかかったかのように動かない。蛇は私をまっすぐ目指して這いよってくる。私はもがくことも出来ない。助けを呼ぶために叫ぶこともできない。樹がそよいでいるが、私の耳には何も聞こえない。私は耳鳴りに苛まれている。まるで、脳が頭蓋骨の中で振動しているかのような、ひどい耳鳴りだ。蛇はついに私のつま先へと辿り着いた。蛇は私のつま先を炎のような舌でしばらく玩び、やがてゆっくりと脛を這い上がってきた。
ああ、ああ。
声にならない声で、私は喘いだ。
蛇の触れたところが熱く痺れている。蛇は私の脛のあいだをゆっくりと這いあがる。ちろちろと赤い舌が膚に触れる。なめらかで冷たいうろこが私の汗ばんだ膚を擦る。私は動けない。
蛇の触れたところが熱く痺れている。
蛇の触れたところが
『起きなさい』
私は我に返った。まぶたをこじ開け見上げると、木漏れ日を遮って、兄が私を見下ろしていた。
「日に焼けてしまうと言っただろう」
怒ったような兄の低い声に一気に目が覚めた私は、素直に身体を起こした。
「早く来なさい、ワタリがお茶を用意して待っている」
兄はそう言い捨てると、きびすを返して、さっさと行ってしまった。
取り残された私は、ばつが悪くなって少しのあいだ、考えを巡らせた。と、私は自らの体の異変に気がついた。
身に着けたジーンズをを押し上げるように頭をもたげた小さな蛇。
「…あ」
急いでボトムの中を見ると、私は初めての夢精をしていた。私はさっと蒼ざめた。
もしかして、兄はこれを見たのだろうか。親といってもいいほどの存在である兄に‘これ’を見られてしまったことは、私にはとんでもない恥辱に思えた。恥ずかしいのとどうしてよいのかわからないのとで、私は情けなくなってその場で泣いてしまった。すると、既に去ってしまったと思っていた兄が、私の方へ戻ってきた。
「驚くことはないよ、誰にでもあることだ。おまえは少し――――人より遅かっただけで」
今年で14歳になるというのに、発達の著しく遅れた私の身体を見下ろしながら、兄は優しく言った。
「おまえも、ちゃんと男として育っている証拠じゃないか」
言いながら、兄はしゃがみこんで私を抱き寄せ、その大きな手で私の頭を撫でた。汗ばんだ兄の首に顔を埋めながら、私は兄に軽蔑されなかったのだと思って安心した。そのまましばらく大人しく身を任せていると、兄の汗の匂いが鼻をかすめた。
兄が耳元で生気に満ちた熱い息を吐いたが、その時の私には兄がこの暑苦しさにため息を漏らしたのだとしか思えなかった。時おり視界に入る兄の長い綺麗な指を見て、私は、まるで蛇のようだ、と、ぼんやり思った。
「ちゃんと処理してから来なさい。ワタリには私が適当なことを言って誤魔化しておくからね」
兄は意を決したように私を離してそう言い、今度こそ家の方へと歩いて行った。
私はいいようのない気だるさの中、真っ白な太陽に照らされたその後姿を、しばらく放心しながら見送った。
兄の汗の匂いに混じって、青臭い香りが辺りに漂ったが、夏の強い風に煽られて、すぐさま霧散してしまった。
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