夢魔
















 私の小さな弟は、夏が好きだった。

 病弱というわけでもないのに、生命力の感じられない、どちらかといえば頼りなげな風情の弟が、あの、座っているだけでも消耗してしまう季節が好きだということが、私にはどうしてもしっくりこなかったのだが、弟は確かに、夏の草木の精気を好んでいた。
 その上あろうことか、その甘い激しい精気を欲するあまり、外に出ることを厭いがちなくせに、庭で昼寝をするようにさえなってしまったのだ。

 男の子のくせに、あまり雄雄しいとはいえない、顔色の青白い弟だったから、夏に猛り狂う植物たちに、憧れに近い感情を抱いていたのかもしれない。私は弟の、動植物に対する男性らしからぬ優しい感性を誇らしく思い、一方で、自分にはない繊細なものを内包する弟に、嫉妬のようなものを覚えながら、彼を見守った。

 しかし時おり、生い茂る木木の葉の取りこぼした夏の熾烈な太陽の光の所為で、弟のか弱い膚は、ひどく爛れるのだった。私にはそれがどうしても許せなかった。何度かそんなことがあったために、私はとうとう、庭で昼寝をするのを禁止した。しかし弟は聞かなかった。私はその後も、弟の少女のように白い肌がひどい有様になってしまう度、何とも言えない口惜しい気持ちを抑えることができずに、苛立って彼を叱った。けれども弟は聞かなかった。弟は、自分の身体に害なす夏の太陽の白い光にさえ、格別の愛情を感じているようだった。










 ある、特別に暑い昼下がりだった。

 お茶の時間になって弟を部屋まで呼びに行ったワタリが、部屋の中に彼のいないらしいということを私に告げたので、私は、またか、とため息をつきながら、庭に出て彼を探していた。
 その日の午前中に業者に庭木を刈らせたばかりだったので、庭には、植物の新鮮な傷口から流れる樹液の青臭くて甘い香りが息苦しいほど満ちていた。その一画で、私はいつものように木陰に弟の仰向けに眠る姿を発見した。

 多少の苛立ちも手伝って、私は大股で彼の方へと近づいていった。覗き込むと、太陽に透かされた葉の緑の輝くその下で、無造作に手足を投げ出して眠る弟の首筋に、白い木漏れ日がころころとはじけて散っていた。その咽喉もとは、陽に爛れて既に少し赤みを帯びている。
 私は、これ以上事態が悪化しないうちに揺り起こして叱ってやろうと考えて、弟に手をのばした。

 が、私の手は、生ぬるく熱せられた中空で、はたと止まった。触れることがためらわれた。視線だけが、弟に吸い寄せられて離れない。

 眠っている弟は美しかった。頬は熱気のために上気して、黒髪が汗で、まだ幼いうなじや頬にはりついている。息は乱れて胸がせわしなく上下している。うなされているのだろう、悩ましげに寄せられた眉根、わずかに震える長いまつげ。もの言いたげにほころんだ、いつもよりも血の気の増した薄い唇。

 瞬間こみ上げてきた忌々しさに、私は危うく弟の細い首を締め上げてしまうところだった。

 この時、私には、弟が夏に求めているものがわかってしまったのだ。

 私の小さかった弟は、今、成熟しようとしている。
 少年から青年へと羽化しようとしている。
 弟が夏という季節に求めていたのは、子どもから雄への脱皮をするための、性の分化を促す狂的な精力なのだ。弟の身体にも、熱に浮かされ狂う人生の夏が訪れようとしている。

 私は無言で眠っている弟のボトムの中にそっと手を滑り込ませた。予想通りに、そこには雄になろうとしている弟の新しい芽が、初々しくふるえながら戸惑いがちに頭をもたげていた。
 私の背を戦慄が走った。もはや一刻の猶予もならぬような気がした。

 弟は、恋のできる身体になってしまったのだ。

 いつかこのふるえる新芽が、私の見も知らぬ誰かに絡めとられ、弟は心も身体も私から離れていくのだ。私から与えられる全てで満たされていたおまえが、私を唯一の人として慕ってきたおまえが、私を捨てて自らの目で伴侶を選び、決める…。

 若き日の異性の肉の引力は、私とて知らぬわけではない。一度結わかれてしまえば、それはさながら麻薬の如くに全神経を支配する。弟もいつかその味を知るのだろうとは思っていた。しかし、その日が目と鼻の先に迫っているという疑いようのない事実は、私の醜い嫉妬を否応なしに煽り立てた。

 許すものか。

 私はそう思った。

 どこの馬の骨とも知れない女などにおまえを渡さない。いや、たとえどれだけ条件のよい女であっても同じだ。おまえを雄になどならせてたまるか。

 既に夏を迎えた私の、成熟しきった身体に燃えたつ毒のような熱が、理性をそそのかそうとするのに私は逆らわなかった。

 おまえは一個の雄にはさせない。
 おまえの牙も、爪も、猛々しさも、異性を求める覇気も、雄としての自尊心や自覚さえも、全て私が奪ってやる。
 おまえは雄雄しき夏の太陽にはなれない。
 おまえは太陽に灼かれて、力なくうなだれる儚い花でなければいけないのだよ。

 私はゆるゆると弟の新芽に指を這わせた。この時の私には、手塩にかけて育てた弟の信頼を失うことへの懸念など、微塵もなかった。

 おまえの初めての樹液は、この私の手で搾り取ってやる。

 苦しげに息を吐く弟をよそに指を動かし続けると、歳のわりにはひどく幼げな新芽はわななき、弟は眠ったままあっけなく私の手に堕ちた。鼻先をかすめる青臭くて甘い樹液の香りに、私はいっそこのまま、自分の内にさか巻く熱を無抵抗の弟にぶつけてやりたいような気分になりかけたが、辛うじて自分を制した。

 今は焦らなくてもいい。

 私は自らに言い聞かせた。‘今は’、というそのひとことに、自らの救われない暗い欲望を実感しながらも。その時、私にはわかってしまったのだ。幸福で穏やかな私たちの時間に、とうとう終止符が打たれようとしていることを。

 いつかおまえを、私の汗の匂いを嗅ぎ取っただけで反応してしまうような淫らな子にしてやるよ。
 
 自分でも聞いたこともないような低い低い声を、私はうなされ続ける弟に投げかける。

 まもなくおまえの身体にも夏の熱が訪れる。
 ただしそれは、私の炎で灼かれる受容者としての熱だけれど。

 知らずに私は唇の端をつり上げていた。思えばこの事態を迎えるまでもなく、私はとっくに知っていた。私が、‘こういう’人間だということを。

 そうだ、おまえが私に出逢ったそのときから、おまえは私と対になる存在となるべく生きはじめたのだ。だから私が優しいおまえをこの身に秘めた暴力で灼くのは、遅かれ早かれ必然なのだ。

 けれども、ああ。



 もしもおまえが永遠に私の庇護を必要とする子どもであってくれたなら。
 そうしたら――――――――私は、醜悪な罪人にならずにすむかもしれないね。



 私は、弟の体液をふき取ったハンカチを木の後ろに投げ捨て、いかにも不機嫌そうな顔を作って彼を揺り起こした。
 私の大事な弟は、私の想いになど微塵も気づかぬ様子で―――――――――――夏の夜のように黒い眼を、見開いたのだった。


















 

 

 

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