金色(こんじき)の羽
「………L」
ヨツバのことで‘竜崎’の耳に入れておきたいことがあったので彼の部屋を尋ねたら、部屋の主の代わりに‘彼’がいた。
ベッドの上で上半身だけを起こした男が、驚く様子も、狼狽する様子も無く、一瞥をくれた。癖っ毛をのばし放題で、それでも優雅な逞しい狼のような男。
アイバーは心底驚いて、彼の‘本当の’雇い主と対峙した。普段は雇った詐欺師の仕事振りなど気にかけず、必要なとき以外は連絡も寄越さず、ましてや部下を気にかけて様子を見に来ることなどありえないこの男が、どうしてここにいるのか、アイバーには一瞬理解できなかった。
「…あの」
私に。
逢いに来たわけではなさそうだな。
どこかでそんなことを思う。
「いや、失礼。
珍しいですね、何かあったんですか」
「いいや」
そっけない。
激することの嫌いな自分が、ちりちりと神経を引っ掻かれているような気分になっているのを感じながら、アイバーは目線で‘竜崎’を探した。
「竜崎と夜神は?」
「さっきまでここにいたのは竜崎だけだ。
ああ、おまえは知らないのか。捜査以外は、あの二人は手錠をはずして別々に行動している。いつも手錠をしていたのでは服さえ満足に脱げないからな。
…あの馬鹿な刑事どもや弥は知らないだろうから、言うなよ」
くしゃくしゃに乱れた臥所の上で、全裸のまま悠々と座しながら、いつものように何の感情も滲ませずに答えた雇い主のその鉄仮面に、しかしアイバーはわずかな違和感を覚えた。世界の切り札‘L’が、他人にたやすく表情を読み取らせることなどあってはならないはずなのだが。
「何か、楽しいことでもありましたか」
あからさまな余韻の残る部屋に踏み込んでおいて、‘雇い主’に対する質問じゃないな、と思いながらもアイバーは尋ねた。
「いいや? …おまえが楽しませてくれるんだろう?」
Lは歩み寄ってきたアイバーを尊大に見上げ、蛇のように微笑んだ。
幼き日のアイバーがLと出逢ったのは、多分運命でもなんでもない。偶然だったのだろうと思う。
ある日、近所でも評判のいたずらっ子だったアイバーが、いつもはその前を通りかかるだけだった、途方もなく広く豪奢な家に興味を惹かれて、その庭を囲う鉄格子越しに、ひょいと覗き込んだら、木陰で小さな男の子がうずくまって泣いていた。自分と同じぐらいの小さな男の子だった。
「どうしたの?」
声をかけると、男の子はびくりと肩を震わせて振り返り、アイバーを見た。
何て綺麗な子だろう、とアイバーは思った。
癖っ毛の真っ黒な夜のような漆黒の髪と、大きなオニキスの粒のような眼。白い肌。少女のように優しい面差し。
黒髪の天使だ。
そう、小さなアイバーは思ったのだ。
我知らず見惚れて言葉のないアイバーを凝視し、長いまつげを一度伏せて上げてから、天使はしゃくりあげながら呟いた。
「おとうさんがおかあさんをなぐったりけったりしていじめるんだ」
「え」
人目も気にせず恥ずかしいぐらいに愛し合う両親のもとに生を受け、‘詐欺師’という父親の特殊な職種以外には影のない、健全そのものの家庭に育ったアイバーは、軽くショックを受けたのを覚えている。
「ひどいおとうさんだね!」
子どもゆえの短慮に思わず大きな声で言ってしまったアイバーを悲しそうな眼で見て、涙を拭いて立ち上がった綺麗な子が答えた。
「ぼくこまっちゃうんだ。ぼくは、ぱぱもままもだいすきなんだ」
あんまり悲しそうに言うので、昔から優しい男だったアイバーの心はひどく痛んだ。しょんぼりうなだれている綺麗な子を何とか慰めたくて、口をついて言葉が出た。
「ねえ、こんどあそぼう!ぼくのいえであそぼう。ぼくのままが、あまいけーきをやいてくれるよ」
綺麗な子は一瞬不思議そうな顔をしたあと、ありがとう、と言ってにこりと笑った。子どもの目にもぎこちない笑顔だったが、アイバーの小さな心臓は大きく跳ねた。
「なまえはなんていうの?ぼくは てぃえり=もれろ っていうんだよ」
「ぼくは、える」
「える?」
「うん、ひともじで、える」
そんな会話を交わすのは、庭を厳しく囲う鉄格子越しだった。どうも‘L’の家は一般家庭と事情が違うようで、Lがアイバーの家に遊びに来ることも、その逆も、実現することはなかった。
Lにはひとり、頭のよさそうな穏やかな執事と思しき男がついていたが、アイバーとLが談笑しているあいだは、決して邪魔をすることなく、たまに遠目に様子を見に来ては、ほっとしたように微笑んですぐに立ち去っていった。
「えるはずっといえにいるの?」
「うん、ぼくはずっとここにいるの」
「かみのけ、すごくきれいなまっくろなんだね」
「ぼくはこのかみ、すきじゃないんだ。すぐにねぐせがついちゃうし、なんだか、かおいろがわるくみえちゃうし。
てぃえりくんのかみのほうが、きらきらしてきれいだよ。きんいろのはねみたい」
「はね?」
「うん、おひさまにひかって、てんしのはねみたい」
天使。
天使は君じゃないかとアイバーは言いかけたが、何故か言葉にすることはためらわれた。
(僕が本当に天使なら、翼で君のところまで簡単に行ける。君をここから連れ出すことも簡単にできるのに)
それができないことがひどくもどかしくて、アイバーは話題を変えた。
「ねえ、あしたうみにいくんだ。かいがら、ひろってきてあげる」
そうやって他愛のない話をしていると、いつも帰りは夕暮れになった。
そろそろ帰るね、と言うと、Lは何故か鉄格子から一歩退いて、寂しそうに笑いながら、またきてね、と小さな声で言い、手を振るのだった。背を向け家に向かう途中に振り返ると、彼の綺麗な白い顔が、まるで囚われの姫君のように見えて、アイバーの胸にかすかな波が立った。
(らぷんつぇる)
そう、小さな彼はまるで御伽話のラプンツェル姫のように見えた。
高い高い塔に閉じ込められ、自由を奪われた美しい姫君。
今思えばまるで笑い話だ。どんな犯罪者も震え上がるほどの危険な因子をはらんでいる男を、よりによって姫君などと。
けれどもそれは仕方のないことだったようにも思える。
彼は確かに幼い頃、儚い天使のような子どもだったし、幼いアイバーは、そんな彼にひどく惹かれていた。小さなアイバーがわざわざあの屋敷に足を運ぶようになったのも、‘える’の顔を見たくて仕方がなかったからだ。
可哀想だから、寂しそうだからというだけではなくて、彼には何か、人の心を乱すような独特の妖しさが宿っていた。
勿論アイバーとて、そんな微妙な印象を受け止めることができるほど、ませた子どもではなかったが。
それからしばらくのあいだ、毎日のようにアイバーとLはとりとめのない話をした。が、ある日唐突に、別れのときが来た。
毎日決まって同じ時刻にあったはずのLの姿が、突然、ふつりと消えた。小さなアイバーは一日かけて屋敷の周りをぐるりと回ってみたが、無駄だった。帰り道、へとへとになったアイバーは、友達に会えなかった悲しみに打ちのめされながら、Lに渡すために母親に包ませたカップケーキをかじった。
「そこの貴方」
すっかり低くなった声でアイバーは呼んだ。その背は確かに、あの日見失った綺麗な子だった。裏稼業として詐欺師を始めて間もない頃。当時裏社会を牛耳っていた某の主催するパーティ会場で、二人は再会を果たした。
「…ああ」
振り返ったLは、目を瞠るような美男子にさま変わりしていた。
あの日アイバーが見惚れた少女のような柔らかな面差しは、はっとするような精悍さに変わっている。美しい漆黒の髪は伸び放題で、その見惚れるような容貌は半分以上が隠れてしまっていたが、何故かアイバーはそんなことを不思議に思う気にならなかった。
「…覚えていますか」
この場では余計なことは言えない。最短の、当事者たちだけがわかる物言いで、アイバーは確認を入れた。この場で‘L’の名を出すのは危ういことだろう。何しろ周りは陽の光の恩恵を受けられない罪を抱えた危うい犯罪者ばかりだ。
「ああ、覚えている」
「あなたが」
あなたがあの‘L’だったのですね。
この世界に足を踏み込んでから耳にする‘L’の名前。
もしかして、と思っていたら、やはりあなたが。
胸にこぼれた呟きを拾ったのか、Lはあの頃のあどけなさなど微塵も感じさせない妖艶さで笑った。
「懐かしいな、来ないか、私の部屋へ」
ああ。
今の自分は、‘L’に声をかけることなどしてはいけなかったのだ。
そう気がついたときにはもう遅かった。アイバーは自分のミスを取り返す方法を考えたが、徒労に終わった。目の前でLは笑みを深くする。
アイバーは黙ってLの車に乗り込んだ。
そしてその夜、初めて‘L’と肉体関係を持った。
ひとしきり燃えた後、Lは唐突に数々の詐欺の証拠をアイバーの目の前に翳してきた。
監獄に入れられたくなければ、必要なとき、呼ばれたときは、いついかなるときも自分に協力するように、と。
アイバーは身をかたくした。この時既にアイバーには妻と一番上の子どもがいた。一家の主の自覚が、咄嗟に、妻子をこの脅迫の材料にされるかもしれないという考えを起こさせたからだ。
が、その場でアイバーの家族の話は出なかった。それを匂わせる言葉さえも、交わされなかったのである。妻子を精神的な人質にとれば、より強固にこの若いがめきめきと頭角をあらわしつつある天性の詐欺師を拘束できるはずだった。無論、Lほどの探偵がアイバーの家族の存在を知らぬはずもない。
まだ若かったが故の、Lらしくもない迂闊なミスだったのか。それとも、彼なりに‘幼馴染’に気を遣ったのか。
後者はない。ここ数年、アイバーが噂に聞いてきた探偵としてのLはそんな感傷的な人間ではない。必要とあれば、あの、未だに彼の側にいる執事と思しき男さえも切ってしまいそうだ。
かといって前者もありえない。そのとき既に、「L」の名は恐怖とともに、陽の下を歩けぬ身の上の連中のあいだに浸透しつくしていた。
アイバーは思った。
彼は多分、単純に‘思いつかなかった’のだ。
‘家族’を人質にとることを。
‘彼’のことを、詳しく知っているわけではない。
けれども、‘彼’の知る‘家族’は――――――――。
『おとうさんがおかあさんを――――――――』
頭を軽く一つ振り回想を断ち切って、アイバーは無言で頷いて承諾した。Lが彼の家族に触れなかったとしても、断れば妻子は危険に巻き込まれかねない。それでなくても自分は方々から恨みを買っているのだから。
Lは満足げに笑った。
「追って連絡する。この話はこれで終わりだ。それよりも…今夜は単純に楽しみたい」
自分から無粋な話題を持ち出しておきながら、Lは先ほど二人の熱を吸ったばかりベッドに自ら身体を横たえアイバーを誘った。アイバーは拒まずに身体を重ねた。獣同士の長い夜はなかなか明けなかった。
「はっ…」
Lが息を吐いた。
身体は昂ぶっているくせに、たっぷりと余裕を湛えた表情で、ベッドの上に腰かけて自分を膝に乗せ揺さぶるアイバーを見下ろす。長い指がアイバーの両肩をしっかりと掴んでいる。爪が肩に食い込み、焼けるように痛い。
誘われるままに体を重ねてしまったが、自分が報告するはずだったヨツバのことがちらと頭をかすめて、アイバーは一瞬動きを止めた。
「もっと深く穿て。それじゃ足りない」
忌々しいほど涼しい声で自ら腰をゆすり、Lはアイバーの獣欲を煽る。アイバーが促されるままにLの臀部を更に大きく割り、腰を打ちつけると、発達したお互いの筋骨がぶつかりあって軋んだ。
滅多にないことなのだろうが、Lは抱かれるときもこうして主導権を握っている。初めて膚を重ねたときもそうだった。
昂ぶる本能とは裏腹に、アイバーは少し嫌な気分になった。多分彼は情交の相手を気遣う気持ちなど持ち合わせていないのだろう。‘そういう’男だ。男であろうと女であろうとその他であろうと、相手をただ自分の過剰な熱を晴らす生殖器としてしか見ていない。それでいて騙し上手で床上手、みめも悪くないのだから性質が悪い。
「…!」
髪を揺らしまさに吐精しようとした瞬間、芯を突こうとするアイバーの腰の動きを微妙にかわし、Lは膝の上で艶やかに笑った。アイバーの乱れた美しい金色の髪を、繋がれたままの主人が鷲掴みにして強く引き、高慢に、下卑た言葉を放つ。
「どうした?情けないぞ大天使様。この私を…昇天させてくれるんじゃないのか」
「…ッ」
飼い主が爛れた快楽を貪るためだけに挑発しているのがわかっていても、犬は行き先をなくして腹の中にさかまく熱には逆らえなかった。
そのまま太い腕に蓄えられた力にものをいわせて、Lの背を乱暴にベッドに沈めた。切っ先の角度が変わって、Lの顔がわずかに歪む。かまわずLの両足を持ち上げて、アイバーは覆いかぶさるように深々と腰を沈めた。
「はっ…は……」
発情期の獣のような交わり。逞しい成人男性二人分の体重にキングサイズのベッドがぎしぎしと悲鳴をあげた。激しい突き上げにLの前髪が乱れて揺れて、端正な顔があらわになる。
やっぱり綺麗だ、とアイバーは思った。まともな性格をしていたら、さぞかし周りに愛されたに違いない。
幼い日の家庭の代わりに――――――――――――――――自分の欲していた家庭を築くことだってできたかもしれないのに。
「くッ……!」
情を遂げる瞬間、アイバーは半ば無心を装って、Lの、自分よりもわずかに華奢な雄の裸身を深く抱きしめた。けれどもLはアイバーの肩に深々と爪をたてただけだった。
一瞬頭の中にはじける白い光に酔いながら、アイバーは、何度膚を重ねても決してすがりついてはこない主人の冷えた奥底に空しく情を注ぐ自分に苦笑した。
「L…あなたは竜崎に何をしたのですか」
ベッドの向こうの死角に落ちた、明らかにLのものではないジーンズと白いシャツを拾い上げ、アイバーは思わずLに問いかけた。
相手の白々しい沈黙に、尚も、可愛い弟なんでしょう、と言いかけたけれど、それ以上は何も言えなかった。くしゃくしゃになった主なき衣服には、おびただしい血痕が付着している。
「ワタリが、呼び寄せた懇意の医者に診せに行っている。心配はない」
あなたは、本当に。
現在携わっている仕事がこの男によってもたらされたものでなかったら、アイバーは立場を忘れて彼を諌めたかもしれなかったが、不幸なことに、この逢瀬でさえもが彼の仕事のうちであった。雇い主の過剰な熱を晴らすための。気まぐれで残酷な飼い主の犬として、快楽を提供するための、副業のようなもの。
「おまえには関係のないことだ。
それともおまえはあの子が気に入っているのか?試してみてもいいぞ。おまえならあの子を優しく扱うだろうからな。私の玩具に傷がつくこともない。一度や二度なら許してやってもいい。
もっとも…あの子は手酷く犯されるのがお好みだからな。おまえの優しすぎる抱き方では満足できないかもしれないが」
それが。
それがたった一人の弟を語る言葉なのか。
一体どうしてこんなことに。
アイバーはLにはわからない程度にため息をついた。庭からあの天使のような可愛らしい少年が消えてから成人して再会するまでに、一体どんな残酷な運命が彼をここまで歪めてしまったのだろう。そしてどうして自分は、こんな呆れた性癖の、病んだ精神の持ち主に、自分から関わろうとするのだろう。
アイバーはゆっくりと、けれども言葉にすることのないまま、悠然と微笑んでいる雇い主に対して語りかけた。
L。
確かに私はあなたよりもずっと平凡な人間かもしれない。
けれども私は、あなたの知らないものを、あなたがどんなに求めても手に入らないものを知っている。
表を歩めぬ稼業だけれど、私には愛しい妻がいて、可愛い子どもたちがいる。
私は愛し愛されることをちゃんとこの身体で知っている。
あなたは――――――――知らないだろう。
ぬくもりの求め方さえ。
L。
私はあなたが心配です。
優しく笑えば、きっとあなただって誰かに必要としてもらえる。あなたにはそれだけの魅力がある。それなのにあなたは、みすみす地獄に堕ちて、あんなに清らかだった魂を悪魔に委ねてしまうつもりなのですか。
私は知っています。あの日、私が見た小さな天使は偽者じゃない。
あなたが私の知らないところで、魂を守るために身につけた自尊心は今、あなた自身を縛っている。あなたが望みさえすれば、失ったものを紛らわすことぐらいならできるはずなのに、あなたは求めることが出来ないで、傷つき続けている。
そう、あなたは傷ついたが故に恐ろしく獰猛な、けれども底なしの孤独に苛まれている獣なのだ。
傷の癒えない苦痛に悶えながら、それを癒す術を知らず、差し伸べられる手を片っ端から傷つけ、はねのけて、そして取り残されて――――――――。
そう考えるのは――――――――私の、単なる感傷なのですか。
金色の翼の持ち主は、貪り足りないという理由をつけて、満ち足りた様子の‘える’に口づけを降らせた。
何度も、何度も。
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