私の小さな頃、兄は優しい人だった。

 自分は空気の読めない無粋な子どもだったから、難事件を解決したばかりの兄が疲れ果てて帰ってくるとすぐに部屋を訪ね、土産の本をねだり、話をねだり、抱きつき、膝に転がって甘えた。

 ワタリが止めるのも聞かずにいつまでもいつまでもそうしているから、私のいないところでは、兄はくたくたになっていたに違いない。

 けれども兄は、私がそうしているあいだ、嫌な顔一つせずに、私の頭を撫でてくれていた。
 私はその、大きな力強い手が頼もしくて嬉しくて、うっとりと眼を閉じてその愛撫を受けた。

 私を救いあげた神聖な手。

 彼に拾われたときのことは覚えていないけれども、ただ漠然と、自分にとってこの手が絶対的なものであると、子どものくせに妙に聡かった私は、そう思っていたらしかった。

 その頃から今に至るまで順に記憶を辿れども、兄は歳をとっていない。幼い頃の記憶の兄と、今現在目の前にいる兄と、少しも変わり映えがしないのである。

 あの頃の自分とは比べ物にならないほど大きく骨ばった私のこの手でさえ、兄のそれに比べると、随分と卑小なもののように思える。その頃から、私にとって兄は、一生超えることの出来ない神のような存在であったのかもしれない。



 兄は、その立場のせいか、自分の顔を見られることを、酷く嫌っていた。
 
 頭の使いすぎなのかどうか、兄はよく、頭が痛いといって寝込んだ。幼い私は、普段はあれだけ堂々としている兄が、別人のようになってしおれているのを見ると、胸が痛んだ。
 熱を測ろうとして額に手を当てようとすると、兄は決まって、私の腕を掴んで、首を横に振った。

 心配するな、というのではない。

 兄の前髪はいつも長くて、それをよけなければ額に掌があたらない。私が前髪をよけ、兄の顔を見ることを、兄は拒んでいたのである。

 私はそうされるといつも、兄に叱られてしまったような気がして、悲しい気持ちになり、しょんぼりと打ちひしがれて、兄の看病に忙しいワタリの傍にまとわりついていたのを覚えている。

 そんなことがあった後は、兄が回復してからも、私は彼に近づくのを躊躇した。拒まれたからではない。自分の心を見透かされたのではないかという懸念が頭を離れなかったのである。
 私は真実、兄の病に心を痛めていたけれど、その反面、一度も目にしたことのない兄の眼を見たかったのだ。

 一度、兄に尋ねたことがある。

 「そんなにかみをのばして、おにいさんはまえがみえるのですか?」

 兄は答えた。

 「私に見えないものなど何もないよ。私のこの目はどんな闇の中からも、巧妙に隠された真実を見つけることができるのだから」

 小さな私は身震いをした。
 この人の眼に見えないものなどない。
 見えないものがないということは、わからないこともないということになる、と、何故かその時、私はそう思ったのだ。

 私もそんな眼を持つことが出来るだろうか。
 私ものこの人のようになれるだろうか。
 兄へのぼんやりとした幼い子犬の愛情が、このとき、はっきりと強い憧憬へと形を変えたのを、私は覚えている。

 私は兄の眼を覗きたくてたまらなかったので、一生懸命せがんだけれども、兄は、やはりこれだけは頑として聞き入れなかった。










 ある朝私は珍しく、兄よりも早く目を覚ました。
 ワタリがたまたま家にはいなかったので、私は嬉々として兄の部屋に彼を起こしに行った。
 そっとドアを押せば、兄は静かにベッドに沈んでいる。兄はいつもより深く眠っているようだった。胸元が規則正しく揺れている。

 私の小さな胸は、好奇心で息苦しいほどに高鳴った。

 何でも見ることのできるというその眼が見たくて仕方なかった。

 私も同じ眼が欲しい。

 私も、彼のようになりたい。

 私はとうとう、そっと兄のベッドに忍んだ。
 兄の体重で中心に向かって窪んだシーツの傾きに導かれるようにして滑り落ちた私は、そうして、震える手でそうっと兄の前髪をよけた。けれども、兄は少し長めのまつげを伏せたまま、まぶたを閉じていたのである。

 眠っているのだから眼の色など見ることが出来ないのだと気がつき、自分の間抜けさに少し笑ったその時、兄のまぶたが震え、そして、すっと開いた。

 開いたまぶたから、兄の眼がはっきりと私の眼を見た。

 その瞳の色を見て、私は時間の感覚をなくした。

 そうして、随分長いあいだ兄の眼を覗いた、と、そう思ったが、後のことは記憶にない。
 気がつくと私は自分の寝室にいた。
 私は、あれほど嫌がっていたのに顔を覗き、その上あんなにもまじまじと見つめたので、兄が怒ってしまったと思い込み、しばらく兄を避けるようにしていた。

 あんなにも見たかった兄の眼なのに、私はその眼のことは何にも覚えていない。
 夢だったのかもしれない。
 いや、夢だろう。
 覚えのいい私が、見たくてたまらなかったものをついに見て、覚えていないわけがないのだ。

 ただ、兄が怒っていると思ったから。

 そう思ったから、私は彼を避けていた。

 この人に怒られるのは悲しくて怖いから。

 怖いから。



 「どうした?」


 Lの声で、竜崎は我に返った。おそらく気を失っていたのであろう自分をまだ容赦なく犯しながら、獣のように笑うLが見下ろす。

 「何でもっ…ありま、せん」

 覚醒する痛覚に苛まれながら、竜崎はぼんやりと、先ほどの夢を想う。
 あれは、あれ自体が、夢だったのだろうか。竜崎には、先ほど自分が思いを巡らしていた優しい過去が、現実であったのかどうかがおぼつかない。

 小さな竜崎を優しく撫でていたその手は今、同じ身の喉にかけられている。首を絞めながら犯すのがお気に入りなのか、Lは、よくそうしながら竜崎を汚す大きな手は、竜崎の首をほとんど覆う。

 大きな手。神の手。私を優しく撫でていた手。

 正常位で、それなのにLに腕をまわすことを許されない竜崎は、代わりに己が背を擦り切るシーツにつかまる。

 獣の背が大きく反る。竜崎の頬に汗が落ちる。

 長い前髪が、乱れて。


 「ああ」


 竜崎は目を見開いた。

 確かにあの時、自分は兄の眼を見たのだ。
 眼を逸らすことが出来なかったのは、兄の眼が恐ろしかったからだ。
 
 底知れぬ闇をたたえた眼。
 闇よりも深い闇。

 普段は物腰の柔らかな、口元に優しい笑みを浮かべたこの男の眼から溢れる闇の色に、小さな竜崎はすくみあがったのだ。

 静かに伸び縮みする虹彩の中心からのぞく、奈落。

 Lに、闇の中のものが見えないはずはない。
 この人は、闇それ自体なのだから。

 体を硬くした竜崎に気づいてLがにやりと笑った。
 竜崎は身震いをした。
 ぎし、とベッドを軋ませて竜崎に覆いかぶさった闇は、耳元でこう言った。



 「私に見えないものなど何もないよ」










―――――――――あなたと同じになりたくて闇を覗いた私のこの眼には今、

何も見えない。















 


 

 

 

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