或る夜















 「本当ですか、L」

 冬の夜の静寂を彼が大きな声で引き裂いたので、ワタリは驚いて振り返った。
 彼は、嬉しくてたまらないというように真黒な目をしばたたかせて、向いに座る「L」を見る。

 「ああ、頼んだよ、お前以外に私の名を名乗ることの出来る人間は他にいないのだから」

 いつものように優しく義弟に語りかける「L」を眺めながら、ワタリは自分の鼓動がいやに大きくなるのを聞いた。










 もう何年も前、今日のような雪化粧の日、どこからかLが拾ってきた子どもは今、さながら餌を貰う雛のようにきらきらと目を輝かせて彼の至上の人を見つめている。
 拾われてきたときにはまったく可哀想なぐらいに貧相だった子どもは、今年早18になろうとしていた。

 ワタリは彼の名を知らない。

 彼の名を知っているのは、名付け親のLただ一人。


 Lは実に愛情深く彼を育てた。

 幼少よりその類まれなる推理の才能を買われ、故に異常な環境に置かれ、目を覆わんばかりに残忍な光景を目の当たりにしてきたLを、始終世話してきたワタリだから、Lのこの子どもに対する愛情には、目を細めてばかりいた。

 かつてLはまともな子どもではなかったから。











 遠い昔、幼いLが殺人現場を真似てベッドに小鳥の死骸を並べているのを、叱り飛ばしたことがある。
 小鳥たちは皆その小さな掌で握り潰されていた。
 どんなに叱っても、いっこうに悪癖は止まなかった。
 小鳥、猫、犬。そして子猿。次第にその犠牲者が人に近づいていく度、ワタリはぞっとしながらこの異常な子どもの横顔を見やっていた。

 それが人間の子どもを拾ってきたときワタリは総毛だった。
 何時か殺してしまうとそう思った。
 いくらLが名探偵だとはいえ人を殺して許される道理はない。

 小さなLは多少異常でもワタリには主人であり可愛い子でもあったから、ワタリは激しく苦悩した。
 それ以来実に注意深く見ていたけれども、ところがこの非力な子どもをLは一度も握り潰さない。それどころかワタリが見たこともないような顔で細やかな情愛を注いだ。


 Lの闇は理性に封じ込められたのだ、とワタリは思った。

 Lの善性の証であるこの少年を、たとえその名を呼ぶことがかなわなくとも、ワタリはとても愛しく思う。











 机をはさんで向かい合う二人の好対照。
 椅子の上で膝を抱いて嬉しそうに義兄に話しかける、少し変わっているけれども歳相応の輝きを纏った少年と、ゆったりと背もたれに身を預け足を開いて座り、義弟の言葉にうなずく落ち着いた青年。

 (この子は)

 ティーカップに紅茶を注ぎながら、膝を抱いた少年を見る。


 Lの背ばかり追うから、服も、髪も、首の傾げ方も、口元に手をやる癖も、とても似ている。
 Lの背ばかり追うから、この子は人の闇とまともに向き合う過酷な世界に足を踏み入れてしまった。
 Lの背を、そんなにも一生懸命に追うから。

 ワタリのように誰かに従属する人間は、主人の秘蔵っ子である彼の生い立ちを知るべくもないけれども、ワタリでさえ近寄り難い空気を纏うLを親と仰ぎ見るこの子が、ろくな出ではないことぐらい容易に想像がついた。

 幸いなことに、Lにとっての善はまた、Lを善として大きく伸びたのだ。

 窓の外ではひゅうひゅうと冷たい風が荒れているが、そんなことはお構いなしに、室内は煌々と明るく暖かい。

 「本当にお二人とも、ようございましたな」

 思わず自分が小さく呟いたその言葉に、ワタリは滑稽なものを感じて、すこうし笑った。

 「ワタリ」

 主人が自分を呼んだので、ワタリは慌てて返事をした。

 「少し、席を外してくれないか」

 途端に胸腔の内から異常な鼓動が激しくワタリを揺さぶる。

 「しかし未だお茶が」

 「ワタリ」


 Lが微笑みながら主人に逆らう者をさとす。

 「キラ事件の詳細を、彼に教えたい」

 「しかし」

 「早く行け」

 「L、何を」
 
 「何、とは」


 Lがにやりと口の端を吊り上げた。

 いやな気配が首筋から背中を舐める。ワタリは主人から目を逸らし考える。

 何を?この部屋に留まる口実を。

 何故?わかりきっている。しかし何ものかが、神経が脳の中の答まで辿り着こうとするのを遮る。

 恐ろしい人。恐ろしい人だ。ワタリはおろおろと部屋を見渡す。

 淡雪を受けた梢が風に弄られながら窓から覗いている。
 窓の隙間からじわじわと滲みつつある陰鬱な冬の陰りが、この部屋自体を呑み込もうとしている。
 机上に目を落とす。奇妙に無邪気な食べかけのケーキ。紅茶にわずかに広がる波紋、こぼれてきらきらと光る砂糖の粒、散乱した死骸の写真。
 不思議そうに見開く真黒な目。
 表情の窺い知れない口角だけがつりあがった青年。肘掛に任されたその腕。骨張った大きな手が、うずうずと閉じたり開いたりしている。

 もはや予感は確信へと変わる。早く何とかしなければ。体中の血が逆流したようになって、ワタリは立ち竦む。


 Lがゆっくりと扉を指差し、最後の警告の代わりに自分の名を呼んだ。



「ワタリ」



 空気が凍るような低い声に追い立てられて、ワタリは身を隠すように部屋を出た。

 すぐさま大きな物音とくぐもった悲鳴とLの哄笑とが背後から聞こえた。

 耳を塞ぎながらワタリは、幼いLに握り潰された小鳥の真黒な目が、これも悲しげに見開いていたのを思い出していた。


















 

 

 

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